蛇の説教②
時は少し遡る。その頃からだった、シオンの視線を感じるようになったのは。
蛇還祭の準備の合間を縫って、シオンはよくカサインに話しかけた。カサインは話かけられる度に怖くなった。
カサインの自我は、天文台の数多の競争と比較で傷だらけだった。
『天文台の学徒でない自分に価値はあるのだろうか?』とカサインは言ったが、
より正確には『自分に価値はあるのだろうか?』が彼を苦しめている悩みだった。
天文台では、価値は外から与えられるもので、それを受けるのも限られた少数だった。
シオンの声は彼の心を苦しめた。天文台という支えなしで、自分の行動に責任を取れなかった。失敗するのが怖くて、他者を受け入れるための試行錯誤が出来なかった。
ある日、村を歩いているとシオンに出くわした。そこは広場で、祭りのための道具が一時的に置かれている場所であり、祭りで燃やすために捕まえた蛇の死体が積み重なっていた。
「ねぇ、これから今度祭りがあるんだけど、一緒に踊らない?」
「え?なんで俺なんかを急に…… 」
「もっとカサインの話を聞きたいと思ったの。ねぇ、行こうよ?」
カサインのねじ曲がった自我は、他人に触れ合うことを恐れ、他人に自我を見られたくなかった。価値のない醜態をこれ以上暴かれたくなかった。
「ごめん、ちょっと考えさせて」
そう言ってカサインは小屋の方に向かった。
「え?なんで考える必要があるの?ねぇ!」
後ろから声が聞こえていた。
考えるは嘘だ。逃げるための嘘だ。蛇の死体が、責めるようにカサインを見つめていた。
―― ああ、俺にもっと価値があれば、もっと周りからの承認があれば、自分に自信が持てるのに。
しかし人が「もっともっと」、と望む時、それは人が価値から離れる時である。
***
老人は、カサインの胸のヒメユリを見ていた。カサインの心臓に根を下ろし、生を吸って輝いているヒメユリを悲しげに見ていた。
「その花、魔法で枯れないようになっているな。なるほど、であればそれは天文台のものだな」
カサインは驚いた。なぜこの老人は天文台を知っているのか。
「気になるか?では話そう。其の実、我は天文台の学徒であった。まだアンブロシウス先生が学長の時だ。二千年も前だがな。
先生は自らの死期を悟り、約束を果たすために濃霧の中に入って行かれた。我はその後を追い、何層もの霧を超えた。
そして影と対峙したが、我は負けて、彷徨い、気が付いたらこの村に倒れていた。
汝もあの霧を越えてきたのだろう。そしてまた霧の中に入ろうとしている。醜い炎に身を任せこの星の中心に向かうだろう」
「どうしてそれを…… 」
「汝はこの村を恐れている、村人との接触を恐れている。だから逃げる。一度目の濃霧はなんとか切り抜けたようだが、二度目はそう上手くいくまい。
汝を待ち受けるは影。人に植え付けられた太古の害毒。それを破壊しては
じめて核へ辿り着く。楽園へ辿り着く。おお、少年よ、別れの時は近い」
***
〈蛇還祭〉は夜に催された。大きく燃え上がる火を囲って、村人は踊る。
その火が燃やすのは蛇の死体。蛇の生命力は煙となって村人に入り、彼らに新たな命を授ける。
激しく、そして楽しく触れ合う村人の影をカサインは一人で座って見ていた。自分の影は、触れ合いが怖くて孤独だった。
その時、誰かがカサインの腕を掴んだ。それはシオンだった。カサインは怯えたように女を見る。
女は明らかに慰めを求めていた。魂の交流を求めていた。手は徐々
にカサインの体を求め、指先には恍惚さと妖艶さが宿っていた。
けれど、カサインはそれが怖くて堪らず、その女の手を振り払って逃げるように森へ向かった。
この土地ならなんとか変われると思ったがダメだった。結局、土地が変わってもカサインは変われなかった。
重要なのは場所ではなく、心の在り方だっただ。カサインは生い茂る草本を、寸刻の触れ合いも許さないほど急いで搔き分けて走った。
目的地に着いた時、老人は普段のように瞑想をしていた。
「ナーガアートマ、俺は行きます。さようなら」
老人はその日はじめての開眼をした。
「潮時か。では心して聞け。汝にこの言葉を託そう。汝の旅の成功を願って。無論、これも言葉であるから、汝の生を縛るかもしれん。
だが、この言葉なくして向こう岸には行けない。だからこれは筏だ。向こうに着くまでは重宝して良いが、渡りきってしまったなら捨てなさい」
そう言うと老人は三回同じ言葉を唱えた。
『我はこれに非ず
我はこれに非ず
我はこれに非ず』
「これは先生が、苦難の旅路の前に授けてくれた祈りである。〈アンブロシウスの祈り〉である。
そして最後に、我が真名はジーヴァン。汝と同じ影に蝕まれ、対峙し、敗北した者である。だがこれは我の生き方。我の道である。汝は汝の道を進みなさい」
「はい。では、さようなら。あなたと過ごした陽だまりは永久にこの胸にあるでしょう」
カサインは背を向けて歩き出した。少し進んでから後ろを振り返ると老人は既に瞑想していた。一糸乱れぬ呼吸、微動だにしない身体。
老人を邪魔する者はなく、周りには調和が満ちていた。青みがかった夜空に照らされた老人は青白く光り、この世の者ではない、死者のような印象がする。
しかしそれはカサインの死とは異なる。
カサインの死は、執着に目が眩み本来の生命を発揮できない類であるが、老人のそれはあらゆる執着を脱した末に行きつく甘露の境地である。
老人は生にさえ執着がなかった。
―― ああ、天文台からでもこんなに美しい男が生まれるのか。
そう思いながら、カサインは背を向けて歩き出した。
夜空には〈祈り〉に反発するように八つの星と十二の星座が忌まわしげに浮かんでいた。
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