蛇の説教①
あれから数日が経ち、カサインはいつものように食糧を届けていたが、最後に「ありがとう!泣き虫博士!」と元気よく子供に言われた。
泣き虫博士。これがカサインのあだ名として広まった。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。天文台にいた頃は、心に潜む影が決してこんなことは許さなかったが、あの夜、あの泣いた夜を経て心が軽くなった気がした。
食料を配り終え、いつもの小屋で昼寝をしていたが、周りが騒がしくなって目が覚めた。小屋から出て、外を見ると、道に大きな人だかりが出来ていた。
気になったのでカサインも群がりに加わったが、その景色を見て驚
いた。
中心にいたのは首に蛇を巻き付けた老人だったが、村の住人は〈アトル期〉に入るはずなので老人の姿まで成長するのはおかしい。
体は痩せこけ、至る所に本来皮下にあるはずの腱が浮き出ていた。極限までそぎ落とした肉と脂肪は、あらゆる所有を放棄した死体を印象付けた。
しかし顔の印象は違った。
その思慮深く柔和な眼窩を携えた顔付きは、むしろ、真の豊かさは物の所有ではな
く、物に触れ合う時の感性であると言わんばかりの豊饒さを備えていた。
首に蛇を巻き付けた老人は徐々にこちらに近づき、遂にカサインの目の前まで来た。その時だった、カサインは頭を下げなければいけないと強く感じた。お辞儀をしなくては…… 。
自分の中にあり、カサインを制御するカサインを超えたところにある何かが彼にお辞儀をさせた。
老人は立ち止まり、言葉を発した。
「少年よ、顔を上げなさい。どうして頭を下げるのか」
「俺の故郷では、その…… 、何というか…… 年上を敬う習わしがあるのです…… 」
老人の首元の蛇がシューシューと音を立て、舌を動かした。その蛇はカサインのあり方に反応しているようだった。
「少年よ、なぜ長寿だから敬うのか。彼の齢が老けたのみで、いたずらに歳を重ねた者もいる。それは敬うに値するだろうか。崇める理由は汝の外ではなく、内にあるものだ」
カサインはそんなことは考えたこともなかったので、唖然とした。
老人の目が、カサインの全存在を見抜いているように感じて、居心地が悪かった。カサインのある部分はこの老人に反発し、嫌っていた。
しかし他の部分ではこの老人に救いを求めていた。彼は必死に考えた結果、この人
に教えを頂こうと決めた。
―― この人の元でなら、色づいた生を取り戻せるかもしれない。『欲を離れ、また欲を離れず』という遺宝の意味が分かるかもしれない。
「どうか名前を教えて下さい」
カサインは言った。
「我が名はナーガアートマ。人は我を森の聖者と呼ぶ」
***
老人は森に帰ったが、しばらくは村の近くにいると言っていたので、カサインは歩いて行くことにした。
森の中は、村とは異なった雰囲気が漂っていた。道らしい道はなく、人を迷わせる迷宮のようだ。原始、おそらく〈星の大災害〉の直後からこの姿のままなのだろう。
植物はその生命の奔流のままに精一杯に生き、その様は一枚一枚色が少しずつ違う葉に如実に表れていた。
キャラバン隊にいた時に借りた服を着ていたカサインは、森の中で場違いに見え、植物は彼の弱弱しい生命力に困惑しているようだった。
この森の生き物は皆、自分のことだけ考えて脇目も振らず生きていたが、カサインは自分の外、本来の自己ではないものの為に生きることに慣れており、自分が異質に感じられた。
深い密林を抜けた先に、少し開けた場所があった。そこに老人はいた。足をあぐらのように組み、背筋をいっぱいに伸ばし、両手の甲を膝に軽く乗せ、全身は脱力し
ていた。
肩に止まっている小鳥たちは、まったく警戒せずに、老人を木か何かと勘違いしているようだった。
カサインはどう話かけたら良いか分からなかったので、少し離れた場所にそっと座ったが、驚いた小鳥たちが慌てて飛んでいってしまったので、老人が目を開けないか
横目でこっそり確認していた。
しかし老人には何の変化もなかったので、カサインも瞑想をすることにした。
ややあって老人が話しかけてきた。
「汝はなぜここに来た?汝は何を望むのか?」
「分からない・・・分からないけど、たぶん俺は生きたいのだと思う」
「汝、苦しみの中にいることを知らず、苦しみの理由を知らず、苦を滅するに能うことも、その方法も知らない。苦は言葉である。汝の生は言葉に囚われている。よろしい、学びなさい。そして言葉を取り除きなさい」
それからカサインは暇さえあれば老人のもとに通うようになった。そしてその度に教えを受けた。
ある時、共に瞑想していると急に雨が降り出した。カサインは雨のせいで集中できなくなったので目を開けると、隣の老人を見てひどく驚いた。
老人の上には、彼を濡らすまいと傘のように頭を広げ鎌首をもたげている大きな蛇がいた。カサインの叫び声に気付いた老人はこう言った。
「この蛇とは長い付き合いでな。天気が悪くなるとこうして守ってくれる」
カサインがびしょ濡れで凍えているのを見て、老人は蛇に、カサインのほうへ行くように命じた。そうすると、大きな蛇はカサインに七回も体を巻き付けた後、頭上に
大きく頭を広げた。
カサインは体も心も冷え切り、生きた心地がしなかった。
「うむ、良い機会だから今日は蛇の話をしよう。古来、蛇の狡知の所為で人々は楽園から追放されたというが、それは違う。
蛇は我らを救ったのだ。そして蛇だけが真の智慧を持つ。我は蛇に感謝しなければならぬ。
年経る蛇のおかげで混沌の地に追放されたのだから。かの楽園では我らの智慧はもろく、自らの楽園を作ることは出来なかった。
だが、ここでは、この混沌の大地では、徐々にではあるが善悪の判断を繰り返して、偶像と十字架を重ねて、自らの楽園を作れる。
楽園とは帰るための望郷の場ではなく、自らの判断と責任をよりどころに創造す
るものである。
確かあの村では蛇を祭っておるな。もうすぐ、〈蛇還祭〉があるはずだ。彼らは、蛇から生まれたと信じ、蛇の生命と知恵を讃えて、祭りをするのだ」
カサインには思い当たる節があり、確かに最近、村人が忙しく準備をしていることを思い出した。老人は話を続ける。
「とにかく彼らも彼らなりに考えて、蛇を敬うと決めたのだ。さて、お前の蛇はまだ生きているか?」
「俺は…… 分からない…… 。まだ分かりません」
「そうだな。まだ時間は潤沢にある。ゆっくり悩みなさい」
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