さすらいの地①

 濃霧が恐れられているのは、その視界の悪さだけではない。濃霧に飲み込まれた者は、自我を失い茫然と漂うことが報告されている。


 彼らの顔が恍惚としているという事実はいっそう濃霧への恐怖を煽る。


 彼らは二度と濃霧の外に出ようとせず、ただ漫然と時を過ごす。星も、競争もすべて忘れて幸せそうな顔を浮かべる。その姿はさながら亡者である。


                   ***


 カサインは頬にザラザラとした感触を感じて目が覚めた。上半身を起こし、頬に触れると付いていた砂が落ちた。


 彼は思い出したように後ろを振り返る。遠い後方に濃霧があった。カサインは生き延びたのだ。


 生還の余韻に浸った後、当然の疑問が浮かぶ。 ―― キャラバン隊のみんなはどうなったのだろう。ベアルは?それに、僕はもう星の街に戻れないのだろうか?母は?母を置き去りにしてしまった。


 カサインは今になって後悔した。平静のありがたみを痛感した。けれど、思いがけずこうも思った。


  ―― 何を今さら人並みに後悔してるんだ。お前はとっくに母を捨てたんだよ。天文台なんかに入らずに母と暮らすこともできたはずだ。だけどお前は占星家を選んだ。どうして天文台を見上げているだけで満足出来なかったんだ。


「そんなの分からないよ。だいたい僕の家は占星家になることが決まってるんだ!そんなのどうしようもないじゃないか!」


 なんとか自分を弁護した。カサインは不機嫌になった。


「僕は疲れている。疲弊しているからこんな声が聞こえるんだ」


 彼は自分の置かれた状況に意識を集中し、これからどうするかを考えようとした。あたりは暗闇だった。


 ただ月だけが空にあり、砂漠は月光を受けて白藍色になっていた。この素晴らしい光景を目に焼き付けるように、彼は一歩ずつしっかりと足を踏み込み、前進した。


 最も大きな問題は寒さだった。先刻まで気を失っていたせいで、夜の寒さは体の芯まで達していた。手先の感覚が鈍かった。彼は取り敢えず目先の砂丘を目指して大股で歩いた。


 砂丘を越えると突然、蛇に出くわした。蛇は二枚に別れた舌を素早く出し入れしていた。しなる筋肉質の体。冷たいが均衡のとれた綺麗な無数の鱗。彼は蛇に触れた

くなった。


 蛇と目が合う。その眼には知ってはいけない奥深い知恵が隠されているようで、それに吸い込まれて落ちていく感覚を抱いた。


 だが、蛇はとっさに後ろを向いて素早く逃げていった。カサインはただ茫然と立っていた。突然のことで何も考えが浮かばなかった。



 いくつ砂丘を越えたか分からないころ、遠くに光が見えた。それは街の光ではなく、小さな篝火がたくさん光っているらしかった。その日を囲んでいる人らしきもの

が見える。人だ!

 

 彼の身体も精神も限界だった。見知らぬ砂漠で、いつ助かるかも分からず一人で歩き続ける恐怖!人を見つけて安心感が増し、極度の緊張が緩和した。その気のゆるみから彼は安堵して倒れた。


                     ***


 ふと意識が戻る。ぼんやりとしているが、次第に頭が何かを考えるようになる。瞼の裏が見える。温かい日光を浴びた橙色の瞼が。日光が苛立たしいので、反対側を

向いてうつ伏せになり、両目を片腕で覆う。


 かなり強く押したので、眼球がジンジンと痛んだ。瞼のスクリーンにはたくさんの幾何学模様が出現し、その姿を捉えきる前に違う形に変化していった。傍からは会話が聞こえていた。


「やっぱりこの村に置いておいてよかったのかな」


「もうよせよ、その問題は族長たちが話し合って解決したじゃないか。それに危険なものは持ってなさそうだし。何も起こりはしないよ」


「でもやっぱり怖いよ。だって外の人が来るのはあの人を除いたら初めてなんだよ」


 カサインは完全に目を醒まし飛び起きた。目の前には一組の男女がいた。見たところカサインと同じぐらいの年頃で若々しく、生命力があった。


「きゃっ!ご、ごめんなさい。私たちのはなし声で目が覚めてしまったのね」


 女は笑顔を取り繕ろうと、すぐ横を向いて隣にいる男に小声で話し掛けた。


「ねぇ、どうしよう!」


「俺に聞かれても分かんねぇよ!とりあえず自己紹介でもするか」


 男は咳払いをして、姿勢を正した。


「俺はネレド。こっちはシオンっていうんだ。よろしくな。あ! 俺族長たちに伝えに行くから、あと頼んだ!」


 ネレドは急に思い出したようにそう言い、一人だけで急いで天幕から出ていった。シオンは慌てて彼の服を掴もうと手を伸ばすが、間に合わなかった。


「ちょ、待ってよ!私を一人でおいてかないでよ」


 そして去りゆくネレドの背中を睨んだが、カサインに横目で見られていると気づくと急いで姿勢を正した。彼女は決まりが悪そうだった。


「あはは…… そ、そう!君砂漠で倒れててこの村に運ばれてきたの。で、このテントに寝かせて様子を見てたんだ。私とネレドは世話係を任せられたの」


 女は一息で言い切った。


「君はどこから来たの?名前はなんて言うの?あ、その胸のヒメユリ綺麗だね。私もそんな風に付けてみたいなあ」


 女はなんとか話題を見つけようとした。一旦話題が見つかれば、あとは流れのままに会話が弾むだろうと思っているようだった。


 ネレドに頼れない代わりに、話題にすがろうとしていた。カサインは会話の速い流れについて行けず黙っていた。


 沈黙。


 すると物音がしたので天幕の入り口に目をやると子供と目が合った。


「こっち見た!逃げろ~!」

「逃げろ~!」

 何人もいるらしかった。子供たちは楽しそうに声を上げながら走っていった。女は子供に気付くとまたかという感じで声を張り上げた。


「こら!ここに来ちゃダメだって何回言えば分かるの。旅人さんは疲れてるんだから放ってあげなさい!」


 女が立ち上がって後を追おうとした時、こっちを見ながら逃げ回っていた一人の子供が歩いてくる若者の膝にぶつかった。

 それはネレドだった。


「悪ガキども!また来たのか!今度見つけたら『森』に置いてくぞ!」


 子供たちはさっきとは違い悲鳴のような声を上げて逃げていった。どうやら『森』とやらが心底怖いようだ。


「騒がしくてすまない。あいつら可愛いんだが、元気が良すぎるのも問題だよな」


 ネレドが笑いながら言う。


「あんたが起きたことを族長たちに伝えたら、連れてこいって言われてな。手間かけてすまないが、一緒に来てくれないか」


 カサインは二人と共に族長のいる家へ向かった。


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