【五】


 長い三連休だったと思ったのは久々だった。


 放課後、あの夜の先生の言う通り、校舎の裏の山までやってきた。約束した日ではないことは百も承知だ。それでも行かずにはいられなかった。思っていたよりもしっかり山だった。『星の山』とボロボロな看板に書かれていた。立ち入り禁止を示しているのか、入り口には黄色いテープが張られていた。けれどこれは先生の命令であり立ち入り禁止とは書いていない、そう言い聞かせてテープを越えた。


 立ち入り禁止の理由はなんだろう。きちんと道が出来ていた。木で作られている階段が私を導いてくれている。けれどすぐに立ち止まる。急に道がなくなった。どこに行けばいいのかまるで分からなくなった。昔読んだ書籍で、急に舗装されていない道が現れたらそれは異界への入り口だと書いてあった気がする。それはあくまで日本中世の考えであるのに、本当に異界のような気がした。一先ず、先を進んだ。迷子になるほどではない気がした。もしダメだったら百八十度回転して真っ直ぐ戻ればいい。


 木漏れ日が射しこむ。土や草たちの呼吸音が聞こえるような気がした。


 足を止めたのは、視界に異様な建物が映ったからだ。それは木製で出来たこじんまりとした建物のようだった。


「いらっしゃい」


突然だった。けれども魔法にでもかかったかのように驚かなかった。草たちの運ぶ音色がそれを美しいたった一つの一小節に変えた。


「約束守れなかった」


私は建物の近くに立っている真島先生に謝った。


「いいえ、体調不良なのは小耳に挟んでいます」


ばっくれたと思われていないことに安堵しホッと溜息をつく。


「その建物は?」


 まるで、夜だった。


「天文台です。ほら、見えますか? ドーム」


体を動かして視点を変えると建物の形が見えた。確かに丸かった。


「どうして? うちの学校は天文部ないはずだけど」


 太陽はもうすぐこの世界を照らすのをやめようとしている。とはいっても、まだ明るい。


「ずーっと前、僕がここの学生だったよりも前はあったようです。けれど、ここに辿り着けない生徒が多くいて廃部に。それからというもの、この天文台は私の秘密基地です」


 けれどもやはり夜の様であった。


 真島先生は笑った。


 まるで夜の時間のように、心が軽かった。さっきまではいつもの、よくいる女子生徒を演じていたのに、急速で夜になったみたいで別時空にいるような感覚に陥る。


 真島先生は私を天文台の中へと招いた。


 足を踏み入れると少し冷えた空気が顔を刺した。電気をつける前のここは、夜に似た静寂を溜め込んでいるようだった。


「今は夏なのでいいですが、冬のここはとてつもなく寒くて大変なんですよ」


それを聞いて、胸が躍る。冬もここに来たいと思った。


 先生が室内の電気をつける。そこは至って普通の家の一画のようだった。小屋、と言えばしっくりくる。木目のはっきりした小屋は、隅々まで掃除が行き届いていた。


「先生は、ここの管理人とか?」


「ええ、そんな感じです。高坂先生から受け継ぎまして」


懐かしい記憶を巡っているような先生の横顔は綺麗だった。きっと、私は羨望の眼差しを向けていたに違いない。


「……いいな」


 呟いた本音は、私でさえもうまく聞き取れなかった。


 真島先生がこちらを向いた。視線が一直線に結びつく。びっくりした私は話題を振った。


「そ、そういえば! ここ、立ち入り禁止みたいなテープが張ってあったけど」


先生は頷いた。


「さっきも言いましたけど辿り着けない生徒が多くいて、ここは魔の山なんて言われてしまったのです。実際立ち入り禁止とは書いていなかったでしょう? けれど面倒くさい所に違いないのでああやってテープを張らしてもらったんです。あれなら井口さんのいうように、立ち入り禁止場所だと思うでしょう」


得意げに彼は言った。


「迷子になった人は大変ね」


 先生は寂しそうに私の言葉を受け止めた。そして私の肩を叩いてまるで「大丈夫」と励ますように微笑んで見せた。


 それから先生は私に背を向けて奥へと歩き出した。振り返って、「来てください」と言った。私は黙って先生を追った。


「さっき外からも見たでしょう。あのドームは天文台でもありますがプラネタリウムでもあるんです。この奥です。プラネタリウムとは言えない程にとても小さいですが」


 そこは本当に小さい空間だった。中心の投影機を囲むように席が並んでいるが、昔遠足で行ったプラネタリウムとは大きさも豪華さも座席数も大分劣っていた。天文台ということもあって、大きな望遠鏡が設置されている。しかしそれが私には心地よかった。


「観たい!」


しかし先生は首を振った。今日はもう遅いからと。


 共に天文小屋を後にして、昇降口で別れた。先生は仕事が残っていると言って職員室へと消えていった。


 遅いと言っても部活に入っている人たちはまだ活動をしていた。真島先生は私が夜徘徊していることを知っているのに、遅いとはなんだと今更ながらツッコみたくなる。


 私は帰宅せず、何となく、校舎に入った。見慣れた教室と廊下を一人歩く。昼間は目を開けばあちこちに人がいるのに、今はいない。けれど音たちが、人がいることを物語る。グラウンドで笛を吹いて合図する人やどこかの教室で楽器を鳴らす人がいる。地面が擦れる音、掛け声、楽器の音が聞こえてくる。自分の席に座ってみるとその音はもっと静かに流れ込んできた。





 興奮気味であった。


 体は休むことを拒んでいた。それはいつものことだが胸が熱かった。


 そしてまた外へ出た。


 思えば初めて外に出たのはいつだったろう。そう遠くの記憶ではない。眠れない夜の寂しさは寧ろ楽しみになっていた。そして今はもっとずっと……。


 真島先生の家へ急ぎ足になる自分がいた。けれど彼はいない。いるはずの人がいないことにショックを受けた自分がいた。胸の奥が痛んだ。


 月の光でハッとした。自分が真島先生に会いたがっているということ。


 否定するつもりはない。猫を被りすぎて見えなくなった自分の素直な気持ちは唯一肯定すべき宝物のようにキラキラしていた。


「井口さん?」


背後で優しいの声が冷えた空気に振動した。振り返って先生を見た。学校で見た格好のままだった。


「今日は恩師に会いに行っていまして遅い帰りになりました」


何故か、先生の瞼は赤く腫れていた。けれどそれに追及することなく言った。


「先生、聞いて」


 見つけた感情を先生に赤裸々に話すことにした。先生に会う事を楽しみにしてる自分がいること。会えなかったらショックを受けたこと。


 先生は満足そうに笑った。


「その調子です」


先生はそう言って家の門をくぐった。


「明日も天文小屋行ってもいい?」


「天文小屋」


先生はオウム返ししてそれから笑った。あの天文台に私が勝手につけた名前だ。正式な名前があるのかもしれない。


「いつでも来てください。きっと、あなたは辿り着きます」

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