【ニ】


 馬鹿の一つ覚えみたいだと思った。簡単に流行に流されて、そこにあなたの意思はあったかと問いたい。しかし問うた所で、しっかり偽りの自分を主張してくるであろう。それが私である。


「ねえこのカフェ可愛くない? 行こうよ」


 佳菜子が私目掛けて言葉を発す。「そこらへんのスーパーで買えそうじゃない?」とは言わない。


「おいしそう! 行こう!」


決して、美味しそうと思ったことは嘘ではない。けれどもそれに払う金額は割に合わないように感じただけ。



 と思ったものの、実際に食べたら頬っぺたが落ちそうになるくらいに美味しかった。


「やっぱ友梨といるのが一番楽だなぁ」


佳菜子は今日もそのセリフを呟く。なぜかと以前聞いたことがある。


「またカフェ行こうね」


 私は別れ際そう言った。


 嘘ではないけれど本心かと問われたら素直に頷けそうにない。




 どんな相談も真剣に考えて一緒に悩んでくれる。


 優しい、怒ったりしない。


 頑張り屋。


 佳菜子は肌白くか細い指を丁寧に折って数えながら私をそう評価した。


「井口さん」


 考え事をしながら生きていると、時間の経過に鈍感になる。ルーティン化した夜の徘徊を体が勝手に行っていた。目の前に人がいることも、声を掛けられるまで気づかなかった。


「満月が欠けてきましたね」


思考が止めて、彼に意識が集中した。昨夜会った、真島先生だ。


「威嚇しないでください」


彼は笑った。誘拐という犯罪に手を染めようとしている直前の人間にも見えたし、本当に心から笑いかけている子供のような人間にも見えた。


 私は、夜になれば、被っていた猫が消える。真っ黒い心は優しい夜に一時的にでも奪われるようであった。まだ二回目の対面でしかも心の内の見えない得体の知れない人の前なのに、昨日みたいに猫を被りなおす気は起きなかった。


「先生は、何者?」


「何者でもないですよ。どこにでも転がってる人間です」


おどけて笑う。


「私に構うの楽しい?」


「構ってるというか、自己満です」


先生は心の内が見えないというよりかは、無いように思えた。全て外に現れているような。


「先生は、私をどうしたいの?」


「そうですねぇ。強いていうならば、昼間のあなたには星になっていただきたいです」


「どういうこと?」


「僕はこう見えて、案外ロマンチストなんですよ」


 彼の言葉は夜に吸い込まれていった。




 一週間に一度の生物の時間がやってきた。夜のない今は猫が消えない。なんでもないフリをして淡々と授業をやり過ごす。向こうも無駄に干渉してこないのが分かってホッと胸を撫でおろす。


 放課後、佳菜子でないクラスメートが言った。「真島先生って、ここの卒業生らしいよ。五年前くらいまでここの校長の高坂とかいう人の教え子だったんだって」。有り得ないくらいどうでもよかった。人は大して他人に興味がないくせに、他人の小さな行動や情報を敏感に拾い集めようとする。その子も典型的で、すぐに別の話題へと切り替えた。


 家に着くと、母の料理が香って食欲を倍増させた。


 手洗いをしながら考える。自分は歪んでいると。けれど同じくらい歪んでなんかいないとも。


 家庭がどうとか、過去にいじめられたとか、苦い思い出があるわけではない。至って普通で、寧ろ他人より幸せな日常を送ってきたと言ってもいい。昔はもっと人間味があった。友達と喧嘩することもあったし、夢を馬鹿にされて泣くこともあった。親に憎悪を抱いたことだってある。けれど今はそんなことはない。佳菜子は、私を優しいといった。違う気がした。人間関係ほど面倒なことはない。友達のことで悩んで苦しむことほど無駄なことはない。いざこざを起こさないようにしようと怒りを抑えたり、我慢したりする時期もあったように思う。けれど知らぬ間に、人への関心とか信頼とかそういうのをゴミ箱に捨てる術を身につけていた。相手に期待しなければ、悲しむこともない。何もかもどうでもよくなって、怒りなんて当の昔に捨ててしまった。故に、私の優しさは優しさなんかではなく、感情の屍である。


 家族が眠りについた夜中、また私はこっそり外に出る。


 昨日よりも涼しい風が、疲れ切った脳と体を癒していく。満月ではないにしても、まだ半月になるには数日かかる月が今日も夜空に浮かんでいた。星も見えた。先生は星になれと言った。月ではなく、星。太陽にも月にも埋もれてしまう星々。星は太陽なんかとは比べ物にならないほどに明るくて大きいという。先生の向ける私への期待は大きすぎるのではないだろうか。私はそんな明るくて大きな人間にはなれない。


「こんばんは」


 気付くといつも通りに真島先生の家の前を通っていた。


「先生って結婚してるよね?」


その情報もクラスメートからだ。


「ええ、子供も二人います」


「こんな女子高生に毎晩手を出していていいの?」


「誤解を招くいい方しないでくださいよ。僕は、昔の自分を見ているだけです」


人と話すのに気を遣わないのは久々だった。大人だから敬語を使わなきゃとは思っても、夜が全てを許してくれる気がしてつい甘えた。だがそれでも人への無関心さは根付いていて、警戒心さえも麻痺しているのかもしれなかった。


「僕は今幸せです」


「幸せ?」


「はい。あの、僕の過去の話をしてもいいですか?」


「それって、長い?」


「夜と比べたら一瞬です」


笑った。……笑った。


「僕は今の学校の卒業生でした。当時の僕は凄く生き急いでいました。ずっと長い事やり続けていた特技をたった数ヵ月で天才に抜かれたり、責任の重さに押しつぶされそうになったり、どうしたいのかも分からなくなって目まぐるしかった。でも、僕は僕を大事にしたいと思った。恩師が僕を導いてくれました」


「恩師って、高坂先生?」


「おぉ、知ってましたか。高坂先生は、人生というのを教えてくれました」


「人生」


復唱しても他人事のように思えた。


「明日、校舎の裏にある森の中に入ってみてください」


 聴いていて落ち着く静寂の音には、真島先生の存在も溶けていた。

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