太陽と月
とがわ
1
【プロローグ】
月が光り始めた。太陽が眠る頃を見計らって、徐々に月は自分を現すが、本当は月は昼間だってそこいる。夜になるから光を放っているわけではない。昼も夜も、月の明るさは本当は同じなのに、月は太陽のせいで輝けない。まるで、私みたいに。いや、私はそもそもいつだって光っていない。月と一緒だというのは烏滸がましいことだろう。
私は今夜も、月だけが光っている夜の世界を徘徊する。
【一】
徘徊という言葉の通り、今夜もあてもなく歩いて、最後は家に戻ってくる。ただ無心で歩いているというわけではない。目的地はなくとも、歩いている目的というものはきちんとあった。一言でいえば〝解放〟だろうか。
集団の中で自分を殺して偽る。心にもないことが口を衝く。思ってもいないのに簡単に頷く。同調することで自分はどこを目指しているのか、迷路の中で迷子になった。
今晩も、冷たい風が頬を撫でまわす。都会でない夜中に徘徊する人はいない。自分だけの時間のようで、心が安らいだ。窮屈な集団からおさらばして、身を曝け出せる気持ちのいい時間だ。誰の声も聞こえない。陰口も笑い声も泣き声も何もない。静寂の夜にあるのは、静寂の音だけ。
街灯も消えてくれたらいよいよ夜は自分のものだと断言できる。その時が来るのを妄想しながら徘徊することもある。けれど、永遠の夜はない。数時間後には月は太陽の光に遮られて姿を消して、太陽の後ろでひっそりと世界を見つめている。そうしてまた、夜を待つ。
太陽の昇る時間帯はいつも耳障りの音たちが耳を襲う。世界は無駄な音で溢れている。そのせいで綺麗な部分が埋もれている。本当は両手で両耳を抑えつけていたい。何も聞こえないくらいに強く強く抑えていたい。けれどそれは容易ではない。肩を軽くたたかれて同調圧力をかけられる。「 」って、無駄な音を発しているのは私だって同じだ。
「君、まだ高校生でしょ」
私だけの時間に侵入してきたのは一人の大人だった。人なんて皆同じ。特に大人なんて単純だ。私は夜に逆らって猫を被りなおした。
「ごめんなさい。ちょっと、眠れなくて夜の風浴びてました。直ぐ帰るんで通報とかしないでくださいね?」
「月が、綺麗ですね」
有名な比喩としてではなく、本当に綺麗だという感嘆の思いが言葉に乗って私に届く。
目の前の彼は、私の言葉を拾わなかった。夜色のスクリーンに浮かぶ月を優しい眼で見つめて言った。今日は満月であった。欠けていない、本当の月の姿だった。
「不審者なら、通報しますよ」
「立場を理解してから行動した方がいいですよ」
「脅迫ですか?」
「いいえ」
距離が離れることも縮まることもない。不審であるのは確かだが、恐らく向こうからしても自分は不審であり、そしてそれは互いに世間一般的な不審者でない。
彼は月を見つめながら口を開いた。
「悪く言えば、ストーカーですかねぇ」
「きもちわるいですね」
「その言葉で、一番傷つくのは月でしょうね」
「何言ってのか分かんないですし、分かったような口で言う大人は大嫌いなんですけど」
「僕もそう思います。大っ嫌いです。知りもしない人にあーだこーだ決めつけられるのは不快です」
この人の言葉で泣きそうになったのは、きっと、夜に酔っていたから。
「申し遅れました。私はあなたの学校の教師です。真島と申します」
驚いたことを悟られるのに羞恥心を抱いて無表情を貫いた。
教師の顔は記憶していない。だから推測だが恐らく、この真島という男は生物学を主としている教師であった。私は顔の代わりに名前は憶えているようだった。
「あなたを知っているから話しかけたというよりは、毎晩あなたが歩いているのを見ていたので気になって話しかけました。ストーカーとか言いましたが、別に故意に見ていたわけではなく、家の窓から見えてしまっただけです。僕の家はここでありましてね」
彼の目線を辿ってその家を一瞥する。立派な一軒家だ。
彼は目を瞑って夜風を感じたり、私を見て微笑んだりした。
饒舌な人は口数の少ない人よりも無駄が多くてまるで太陽のようだと思う。普段なら鬱陶しいと感じるのに、感じなかったのは、やはりあまりにも夜が美しくて酔ってしまったからだ。自分にそう言い聞かせて拳を握りしめる。
「僕も夜を散歩しようかな」
耳を疑った。彼は何と言ったのだ。自分だけの唯一の時間を奪おうとするものは敵のように思えた。自分は相当酷い顔をしていたのだろう。彼は私と目が合うと一瞬、慄いて後ずさりした。けれど、すぐに彼の表情は殺された。小さな子供のように笑って見せた。恐怖に脅えながらの無理やりの笑顔だった。
「気をつけて帰ってくださいね。おやすみなさい」
私は何も返事をしなかった。いや、できなかった。
彼が家に吸い込まれると、夜が元通りに直った。
心が波打った。
満月の光が、少しだけ痛かった。
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