むかし

 母が突然男の人を家に連れ込んだのは、中学生になって間もない頃であった。

「彼は私の彼氏なの」

 無邪気に笑う姿は少女のようだった。如何にも優男という風貌で、記憶にかすかに残る父とは似ても似つかなかった。しかし、出口の見えない闇に灯が点されたような気がした。実際、夏を経て家に居付いた男との生活は悪くなかった。崩壊していた生活は少しずつ修復され、母は昔のように三食を用意してくれるようになった。中学生生活は、それなりに順風満帆に過ぎた。特に何事も無く、極めて順当に進学校と呼ばれる高校に進学出来た。母は大いに喜び、男は西洋風の生菓子を買ってきた。とても甘く、美味しかった。

 それから一年経ち、母は頻繁に男と家を空けるようになった。最初はあった書置きも、次第に見当たらなくなった。梅雨が明け、男が同居し始めて四年になる頃、母は家に帰って来なくなった。一日経てど、二日経てど音沙汰も無かった。一週間後、呼び鈴も鳴らさず目の前に現れた男は、他に多数の男を引き連れていた。無理矢理連れ出されるのは、瞬く間の出来事だった。連れて行かれた先は、母に付いて何度か来た事のある教会本部であった。公民館のような佇まいの其処は、何となく薄暗く、異様な雰囲気を放っていた。男は或る一室の前まで来ると、乱暴にその扉を開けた。

「視ろ」男は下卑た笑みを浮かべながら、部屋の一角を指差した。暗い部屋の中、廊下の明かりでぼんやりと浮き上がる人の形をしたうごめいている。頭を固定されたわけでも無いのに、目を逸らすことは出来なかった。

「嗅げ」煙草とアルコールの臭いが混じる濃密な空気が身体に充満する。強烈な栗の花の匂いと、それを上回る吐き気のする程甘い匂いが漂っていた。

 ──覚悟をめろ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る