6
また夢を見ていた。水槽越しに見ているみたいにぼやけていてはっきり見えないが、それは母さんだった。
突然、プツンって音が、した。
「光瑠さん!!」
僕を起こしたのが、この世で最も嫌いな音かそれとも優しい彼の声かどちらだろう。
目を開けると、見覚えのある男の人がすごい形相でこちらを見ていた。
「大丈夫ですか!? 気持ち悪いんですか?」
朦朧とした意識の中で、目の前の男の人が昨夜の彼であると理解する。僕は軽々彼に抱き上げられると、そのままベッドへ運ばれた。
「横になると辛いですか?」
首をゆっくりと横に振ると、彼は一先ずホッとして横たわる僕の横で腰を下ろした。嘔吐と疲労、そして母さんの夢は、僕の意識を奪っていく。
そのまま、僕はまたすぐに眠ってしまったらしい。僕の夢の場合、疲労からくるものだが過度な疲労だと夢を見ないことに今更ながら気づいたのだった。
目を覚ますと、すぐ傍で彼が寝ていた。ベッドの中には潜り込まずに、ただ頭だけをベッドに預けて眠っていた。体は案外すんなり起き上がり、昨日のようなだるさは軽減されていた。朦朧としていた昨夜、彼がずっと僕を心配していたのが朧げに思い出される。僕が寝た後も恐らく暫くは気になって眠れなかったであろう。申し訳なさと相まって胸のあたりがほんのり温かくなるのを感じた。
ベッドの枕元にある電子時計には五時と浮かび上がっている。彼の朝は早いのだろうか。もう起こした方がいいのだろうか。僕は彼のことを全然知らない。人差し指に乗る程度の情報しか知らないのだと、痛感する。
もし起こさなかった事で彼が会社で怒られるのならば僕が起こさなければ僕という存在は完全に無価値となる。そんなことは正直どうだっていいのに、彼に幻滅されることを恐れたのか、妙に体が震えた。
「架谷さん」
初めて彼の名前を呼んだ。
「架谷さん」
今度は、起こすという意志を持って彼を呼んだ。ついでに彼の肩に手を置いて軽くゆすってみる。そこまですると彼の口から寝呆けた、いや少し甘えているような声が零れた。少しだけ口元が綻びそうになったがすぐに使命の意思に支配される。
「起きてください、架谷さん。朝です」
漸く僕の声が届いたようで、彼は眼を擦りながら顔を上げた。妙な寝方のせいで、寝ぐせが目立つ。視線を彼の服へと持っていくと、スーツの格好のままだった。
「光瑠さん……、体調どうですか?」
なぜ彼は、余裕のない状況下でも尚、こんなにも僕を気にしてくれるのか理解できなかった。
調子は戻ったと伝えると、彼は安心した顔を浮かばせ、風呂を勧めてきた。
「疲れも取れますよ」
疲れているのはどっちだと言われたら、この状況を何一つ知らない第三者が見ても明らかだった。
「僕はベッドでよく眠れたし、架谷さん先入ってください」
そう言うと、一度は拒否してきたものの結局は彼が先となった。
風呂を沸かすまでの時間、それは初めての彼と二人きりの時間だった。僕はリビングのソファに、彼はソファの下に腰を下ろした。ソファは確かに丁度いい沈み具合でここで一夜を明かすくらいならば問題はなさそうだった。彼が何故ソファに座らないのかは気になったが聞かなかった。というよりは、沈黙を破る勇気がなかった。僕は後ろから、彼の背中をただ見つめた。幼い顔立ちではあるが、男だと感じさせられる力強さを感じた。
するとその背中が天井へ向かって動いた。立ち上がったのだ。どこへ行くのだろう。彼が遠のく。
その瞬間、妙に居心地の悪い不安が僕の全てを支配した。だが、それを口にすることは自分が許さなかった。母さん相手なら言えた。元恋人にも、言えたかもしれない。彼は、知り合ったばかりのただの他人だった。
一瞥もくれずに彼の姿がリビングから消えた。他のドアが開く音がした。逃げたのだ。僕と同じ空間にいることから逃げた。きっと僕を拾ったことを後悔しているのだ。僕はやはりここを出ていくべきだと、改めて決心する。
すさんでボロボロになった僕の心は、人の優しさに過剰に反応した。その結果、僕の心は優しさに触れる前よりも崩壊された状態になったようで。
呼吸する息が震えた。どうせ死ぬのだから、最後は死しかないのだから、悲しむ必要も何もない。そう言い聞かせては、震えた。
どう足掻いても死ぬ、それだけではなく、どうせ僕は独りなのだと痛感する。窓から差し込まれる朝日が眩しいのに、太陽は僕など照らさないのだ。
「光瑠さん」
背後から彼の声が僕を呼んだ。振り返るとノートパソコンを手にした彼が立っていた。戻ってきてくれた。
彼の言葉一つ、行動一つで一喜一憂している自分がとても面倒臭くて、とても人間らしいと思った。
彼は僕をじっと見ると、くすっと笑った。
「光瑠さん、朝日に照らされて神々しいですよ」
思わず、泣いてしまいそうになった。
僕にとって太陽は、紛れもなく彼だった。
その後は少しぎこちないにしても会話は続いた。
「今日仕事は……?」
「今日は土曜日なのでないですよ」
「土曜日、ですか……」
「曜日感覚もうないですか? 今日はずっと家にいるので安心してください」
そうやって優しく笑うその顔は、やはり母さんの笑顔と似ていた。
母さんがいなくなってから、心の拠り所をなくした僕は誰かに本音を言えることもなくて頼ることも甘えることもできなくなっていた。ただ生きている、そんな人生だったと思う。
「あ、お風呂できたみたいなので行ってきます」
「はい」
彼の傍で、残りを生きたい。そう思う自分が生まれた。
彼が風呂場へ消えていく。
でも、だからこそ決心は揺るがない。
机の上に置かれた昨日の彼からの置手紙の余白に、「ありがとう」と「ごめん」を含んだ文章を書き込む。
行かないでと言ってほしいのが、本音だ。でもそれは独りが悲しいから、彼がこんなに温かいから。
彼への感謝は直接言ったって伝えきれやしない。それでも彼はきっと呼び止めてくれるから。僕はもう大丈夫だという覚悟をきちんと文字に起こした。こうして言語化すると覚悟ももっと意味のあるものへ変わっていく。
こんなにも気持ちを込めたこの言葉たちは母さんに渡す以来だった。それから、薬とカードが入っている財布、そしてくしゃくしゃになった彼の名刺を持って、出た。
外は、相変わらず何の変化もない。日常とは、ちっぽけな人間が病魔に侵されても死んでも変わることはない。逆に僕が死んで世界の日常が変化したりなんかしたら申し訳なさすぎるなと、想像しながら苦笑した。
僕には、母さんがいる。物理的には存在しなくてもちゃんと記憶として生きている。そして、彼がいる。
彼が僕に思い出させてくれたこの感情を無駄にはしたくなかった。
治って一緒に酒を飲める未来を信じてくれた彼。
家族になろうと言ってくれた彼。
彼の優しさ全てが、僕に染みていく。
彼が同じ地で生きてさえいてくれれば。
生きよう。正解も根拠も曖昧だけど、そう感じたのは彼の優しさに触れたからに違いなかった。
例えかっこ悪くても、足掻いて生きよう。
必死に精いっぱい生きよう。
僕はそう決めた。
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