夢を見た。疲れた日にはよく母さんが夢の中でエールを送ってくれる。この日もそうだった。

 母さんとの思い出は振り返れば沢山ある。それでも夢に出てくるのは大抵決まった思い出だった。


 シャッター音が響く。それがこの夢の始まりだ。実際には音はない。説明するならば、セリフの書いてある僕の記憶という漫画の世界に僕自身が入ったイメージだ。喋っているようで、会話しているようで、実際は声を発せていない。だけど聞こえている感覚。それは漫画で文字を読んでいる感覚と似ている事に最近気づいた。ついでに言うと色もない。睡眠中の僕は、無意識に音を作って色を作っているだけに過ぎない。


「いい笑顔~」


目の前にはデジタルカメラを覗く母さんの姿があった。僕の姿は夢でも客観視できない。そして夢の僕は単なる記憶だから、勝手に動くことはできない。そもそも動こうということさえ、見てる最中には思わないものだ。


「と~もだ~ちひゃ~くにんでっきるっかな~♪」


 母さんが陽気に歌いながらまたシャッターを切った。

 パシャ。

 場面は切り替わり、眼前には無数の写真が広がっていた。僕は母さんの膝に座っていた。


「これがお父さん。これが光瑠。覚えてる?」


 僕の視界は左右に揺れる。


「もういないけど、光瑠の家族だよ」


 視界が右上方向へ移り変わる。目の端で母さんを捉えた。母さんは少し寂しそうに、でも幸せそうに笑っていた。

 そこで夢は途切れ、僕はそのまま真っ暗な睡眠の沼へ沈んだ。


 母さんはアルバムを大事にしていた。何かある度に母さんは僕にカメラを向けた。僕単体の被写体と、母さんとの家族写真、一場面につき最低二枚は撮っていた。

 恐らくそれは、母さんのトラウマのようなものだった。父さんが死んで、思い出は胸に刻まれていても父さんをもう一度見る事は不可能だ。幼い頃から何度もアルバムを見せられているから覚えているが、僕が産まれてからの父さんの写真はたった一枚だった。一緒に映っていたのは赤ん坊の僕だけで、実質家族の集合写真は一枚もなかった。母さんはそれが悔しくて仕方がないようだった。


 夢は遥か遠い世界から母を迎える。幸せな夢に違いないが、朝目が覚めると必ず泣き跡が顔に残っていた。枕も湿っている。


 今日もそうして目覚めた。体を起こしいつも通り洗面所へ向かおうとして異変に気付く。視界に映る部屋は自分のいつもの部屋ではなかった。そこで漸く昨晩のことを思い出した。

 全てを捨てて死のうとした僕は、いざそれと対面すると腰を抜かした。見ず知らずの人に散々泣き散らかして挙句の果てには家族になると言って死ぬまでここで住まわせてもらう事になったのだ。冷静になって思い返すとどれも突拍子もない出来事ばかりで、自分が病魔に侵されている事実さえ疑いたくなった。

 寝室のドアを開け、彼のいるリビングへ向かう。昨夜はソファで寝ると言っていたが、そこに彼の姿はなかった。あまり色々な部屋を覗くのはプライバシーの侵害に当たるだろうと、リビングにとどまった。とはいえ、見える範囲で彼を探したがそのどこにも彼はいなくて、試しに声を発してみても、自分の声が反響して返ってくるだけだった。

 彼がいないことを確信したと同時に、リビングの机の上に置手紙と朝食が置いてあるのを目の端で捉えた。そこにはこうあった。

〝仕事に行ってきます。時間がなくて朝食しか作り置きができなくてすみません。お昼は好きに冷蔵庫を漁ってください。部屋は好きに使って下さい。夜は一緒に食べましょ!〟

昨晩の彼からも感じた誠実さのような丁寧さが字と文に表れていた。

 僕はその場に腰を下ろして、彼の作ってくれた朝食を有難くいただいた。冷めた味噌汁は温めなくても、胸の奥へ熱く染み込んだ。

 誰もいない部屋に響く自分の声が、寂しさを訴えていたのは気づかないふりをして、食器を洗い始めた。

 することを無くした僕は、広々とした正方形みたいな箱の中で手持無沙汰に突っ立っていた。この部屋にある多くの隙間は、僕の心の隙間のようで全てを何かで埋めたい衝動に駆られる。彼はこんな所で何を思って生きているのだろう。

 そこまで思考を回して、もうやめた。

 昨夜は酷く寂しかったが、今はもう平気な気がした。感情の高揚ひとつで彼の優しさに甘えているわけにはいかない。僕はここを出なければならない。


 その時だ、決心を簡単に崩壊されるような酷い吐き気が襲った。初めて踏み入れた他人の部屋の構成など知らない。トイレがどこにあるのかも分からない。口元を震える手で握りつぶすように抑えながら、覚束ない足取りで兎に角ドアを開いた。二個目のドアがビンゴだった。

 他人の家だとかトイレだとかそんな事は分かっていた。僕だってしたくてしているわけじゃない。美味しかったはずの朝食が逆流してきた。彼の優しささえも僕は受け取ることができないというのだろうか。自分が酷く醜く汚い人間に思えて、涙が溢れてきた。

 もう吐くものは残ってなくても吐き気はやまない。薬の副作用はこんなにも苦しいのか。吐き気と共に疲労が襲う。トイレで寝るのは避けたいが、体にはもう起き上がる力が残っていないようだった。疲れた。もう、このまま死んでしまってもいいのにとさえ思った。でもその前に、最後の最後まで迷惑極まりない奴でごめんさないと、彼に頭くらい下げたい――……。

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