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「お金くらい持ち歩かなきゃですよ」
店を出て早々に説教をされた。でもそれは酔っ払いの面倒な絡み口調ではない。
「すみません」
会計時、手元に現金がないことに気付き青ざめた。クレジットカードは折って捨てたし、あるのは銀行のカードだけだった。夢のような空間から、急に現実へ引きずりおろされた時、絶望さえ感じた。無銭飲食で警察に追われるのだろうか。そう考えた後に、自分がもう死ぬ事を思い出した。どうせ死ぬんだから。そうやって自分に言い聞かせて他人への迷惑も気にしない事にした。正直に金がないことを伝えると、彼は呆然とした後笑った。
「僕死にますし、お金必要ない、ので」
わざわざこんな事を言って、彼になんて言葉をかけてもらいたいのだろう。自分の心が弱くなっているのを痛感して余計苦しくなる。
自然と目線が足元へ移り変わる。僕の発した言葉のせいで、僕らの空間は緊張を孕んだ。沈黙が続く。夜というのもあって、静寂がこの張り詰めた息苦しさを助長させた。
暫くして、小刻みに震えだした僕はやるせなくなって「それじゃあ」と言い捨てて背を向けた。
僕はなんて狡猾だろう。こうして逃げようとしたら彼がどう行動をするか、たった数時間の付き合いだがわかる。それを求めた故の行動だった。
手首を人のぬくもりが覆った。
「待って光瑠さん」
振り向くと、視線は彼の視線と一直線に繋がった。
次の瞬間、彼は沈黙を恐れたのか思い切ってこういったのだった。
「家族になろ!」
恐らく彼は弱い立場の者を放っておけないたちの人間だった。これまでも沢山の人にお節介をして世話を焼いてきたのだろうと思う。不器用な優しさは、すぐにでも砕けてしまう僕の心を優しく包み込んだ。
言った後の彼は慌てて言葉を言い直した。
「変な意味じゃなくて! 死ぬまでなら、俺の家貸すので……。お母さんとの約束を果たすためにも。家族って、思いがあれば家族になれるでしょう?」
必死に弁解する彼は、大人に悪戯が見つかった子供みたいだった。僕はそんな彼を前にせせら笑った。それは了解の合図でもあった。
僕は家族を作ることに必死で相手のことをあまり考えていなかったと気づいた。彼の家へ向かっている途中に、何故こうなったのだろうと数日前の記憶まで遡ってみた結果のそれだった。思えば、別れを告げられた彼女の事をどこまで知ってどこまで愛していたのだろうかと考えた時、大した思い出も記憶も蘇ってこなかった。彼女に悪い事をしたと、今更ながら、思った。
一歩前を歩く彼はさっきの発言を度々思い出しているようで、実際に声には出ていないが必死に自分と一悶着しているのが見て取れた。
彼は彼、僕は僕、つい数時間前まで他人だった僕らはこんなにも簡単に繋がった。そう思えば思う程、不思議だった。
「光瑠さん、つきました」
声をかけられて我に返ると、急に視界が現実を映し出す。目を開けて世界を見ていたはずなのに、思考を続けているとその思考と関連する光景が浮かぶのか現実の世界など見ていなかった。
顔を上げるとその家というのは空高く伸びていて、最上階まで視線が追い付くと同時に、ここら辺では最も背も金も高い高層マンションだと気づいた。
「ここに住んでるんですか? 一人で?」
「恐縮ながら」
新世界の地へ踏み入れた感覚だった。思っていたよりもシンプルで上品な佇まいのマンションだ。
彼の部屋は十階を越えた高さにあった。
「どうぞ」
高級なマンションに立ち入る事などまずないため、終始そわそわした。部屋に入るとそこはテレビでよくみるような景色があった。もう夜ということもあり、窓ガラスの外には光の宝石が広がっていた。そこには大きなソファも二つあるというのにまだ空間が余っていて兎に角広々とした部屋だった。
「上着掛けますから貸してください」
「あ、ありがとうございます」
そそくさとスーツを脱ぎ伸びた彼の手にそっと渡す。育ちがいいのだろうか、それとも単に綺麗好きなのかは分からない。部屋はお手本のようで、靴も服も食器も本棚も家具も、何もかもが置物のような存在と化していた。要は、居心地が良くはなかった。
コップに水を汲んだ彼は、僕を寝室へ案内した。
「全然知らない奴の部屋で寝るの怖いかもしれないですけど、本当に安心してほしいです。ゆっくり休んでください」
手に持っていたコップを僕に渡しながら、彼はそう言った。彼はもう、冷静な態度に戻っていた。
「あなたはどこで?」
「ソファで寝ます」
「そんな悪いです」
「平気です。あのソファ寝心地いいので。おやすみなさい」
彼は僕を寝室へ閉じ込めるようにドアを閉めた。
もらった水は、コップの中でゆらゆら揺れていた。僕が飲まなければこの水は行き場をなくすのだろうか。ただ一生このままで、蒸発していくのをただ待つのだろうか。こう思うように、彼は僕をあっけなく死なせたくなかったのだろう。
僕はおもいきり水を飲み込んだ。それは少しぬるくて、優しく喉を胃を撫でた。
申し訳ない思いを抱いたまま、思い切ってベッドへ横になった。眠ろうとした時、左手が何かを握っていた事に気付いた。怪訝に思って左手の力を緩め覗くと、それはくしゃくしゃになった彼の名刺だった。そういえばバーの中で彼に名刺をもらったことを思い出す。無意識のうちにずっと強く握りしめてしまっていたらしい。
撫でる様にして変形した名刺の皺を伸ばす。頑張ってみても一度できてしまった皺はもとには戻らなかったが、なんとか読めた。彼の名前は架谷椋、というらしい。そこそこ大手IT企業の社員だった。このマンションに住んでいるのも納得できた。僕とは何もかもが違う気がした。
そんなことを睡魔に侵される頭で思った。
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