3
何分ほど泣いただろう。商店街の道の片隅で大人が泣くなど情けない。僕はまた涙を押し殺して、抑えて、飲み込んだ。
「すみません、もう平気ですから」
すらすらと言葉がでないのは、それだけ深く泣いたからだろうか。
「そんなふらふらで家に帰れますか? タクシー呼びます?」
「帰れます、平気なので」
できるだけ、全力で拒否をした。それでも彼は僕を受け止めようとした。
「せめて送らせてください、心配です」
優しさとは一概には言えない。
人の数だけ優しさがあると母さんが教えてくれた。その優しさを優しさと捉えることのできる関係が最も良好な関係性だとも。例えばそれは母さんと僕のような。対して彼の優しさは僕には鬱陶しかった。帰る場所などもうないのに、彼は後ろをついてきた。
「えっと、僕の家はとても遠い所にあるので朝になってしまいますよ」
「車出しましょうか?」
なぜ引き下がってくれないのだろう。なぜこんなにも無条件に人に優しくできてしまうのだろう。その優しさが時に人を傷つける程に嬉しくさせてしまうことを彼は知らないのだろうか。
母さんが死んで、自分の生きる糧も意味も全てをなくした喪失感の中でなんとか耐えて生き続けてきたが、毎日が過ぎていく度に僕の心も退化していた。以来、久しぶりに人の優しさに触れた気がして目頭が熱くなる。泣いてばかりだ。
「え、どうしたんですか? やっぱり病院とか……」
大切な人がいない世界など、生きている価値はない。どうせ死ぬなら格好つけたいなんてどうしようもない感情に支配されていた。本当はずっと震えていたし泣くのを我慢していたのだと気づいてしまった。死に震えている自分を知ってしまったが故に後戻りができそうにない。
夜は酷く寂しい。孤独を孕んでいる。秋の、少しひんやりした夜風が僕の肺を凍らせていく。
「死にたくないなぁあ」
蚊の鳴くように小さく、震える自分の声が聞こえた。言葉にするとそれははっきりと感情を形作った。
彼は相変わらず困惑してあたふたしていた。こういう親切な人はもっと価値のある人へ優しくした方が得だろうに、繋ぎとめようとしてしまう自分に嫌悪する。
「えっと、じゃあちょっと店に入りますか? いくらでも話、聞きますよ」
彼の優しさが例え嘘だとしても構わなかった。表面上の優しさも、その人の優しさに変わりはない。母さんはそういうだろう。
今だけは、優しさの中で溺れていたかった。
僕らは駅前のバーに入った。ファミレスで泣いていたら余計目立つと言う理由で選択肢から除外された。
「ここはそんなに人が来ない所なので、思い切りぶちまけていいですよ」
カウンター席に横並びに座ったあと、彼はマスターに飲みやすいカクテルを二人分頼んだ。彼はここの常連客のようでマスターとは慣れた口調で話していた。
「今日は一人じゃないんだね」
「今日は特別ですよ」
心なしか、その綻ぶ笑顔は母さんの笑顔と似ていた。
「あなたは……成人して、ます?」
その横顔に僕が言う。彼の瞳は自分の目線よりも上にあっても、僕よりは若く見えた。
「二十三ですよ。よく童顔って言われますけど、未成年にまで見えますか?」
彼は小さく笑った。よく見ればスーツを着ていた。着こなしはきちんとしていて暑苦しいくらいに見本通りだった。この人はきっと、立派な大人だった。少なくとも僕よりかは。
「あなたはいくつなんですか?」
「……二十六です」
普段なら個人情報を軽々しく教えたりはしないのに、嫌でも一年後には自分という塊は弾け飛んでしまう。それなら隠すこともないだろうという考えに辿り着いた。いや本当にそうだろうか。甘えたかったのだと、思わなくもない。
半ば投げやりな気持ちで、僕がどういった人生を歩んできたのかをずらずらと話した。実際に思い出を、これまでの人生を言語化すると、思っていた以上に人生の殆どは母さんだった。こうして母さんの思い出を誰かに共有する事は初めてだった。何度込み上げてくる涙を飲み込んだことだろう。
「素敵なお母さんですね」
話の途中で彼は言った。可哀そうだとか不幸だとか言われるものだとばかり思っていたから、予想外な言葉に驚いた。母さんは悲しい思い出ではなくて、素敵な思い出だということを人に分かってもらえただけで胸が熱くなった。僕はその後はもっとゆっくり、美化させないようにただ真実を、宝物をそっと撫でるように彼に話していた。
母さんが死んでからの僕の人生は闇にも近かった。喪失し続けた人生に、終止符を打とうとした事は数知れず。それでも生前の母さんの言葉を裏切られなかった。様々な葛藤を繰り返して生きることを選択した。
「お母さんの言葉って?」
彼が訊く。胸がぎゅっと締め付けられる。
それは、素敵な家族を築くことだった。母さんが病気で弱り果てた頃、病室で言われた。自分がいなくなった後の僕の様子など母さんには容易く想像が出来たのだろう。いつか必ず守りたいと思える人と素敵な家族を作ること。その約束を守ること。最後まで僕は頷かなかった。
「家族かぁ」
彼の横顔が少し寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
それから僕は一気にここまでの経緯を話し終えた。母さんが死んでからの人生は無理やり惰性で生きていたといっても過言ではない。素敵な人と家族を作る、それを達成するために心を偽っていたのかもしれないと今ならば思う。別れを告げられてショックだったのは確かだが、それは積んできた三年の月日が無駄になって家族を作るチャンスを逃したことがショックだったのだと思う。所詮僕は母さんの願いを果たすためだけに生きているだけだった。例え母さんはいなくとも、いつまでも母さんは僕の全てだった。生きてること自体が変に感じる。
そんな自分の人生を、いや母さんとの人生をしみじみ思い返していると隣から鼻をすする音が聞こえた。顔を向けると、彼の瞳が美しく淀んでいた。
「泣かないでください」
「すみません」
「僕は別に不幸だなんて思ってないですから……」
まるで自分に言い聞かせているようだった。幸せがあればそれ以上の幸せを求めてしまう。彼はきっと僕を可哀想と思って泣いているのではない。優しいから。彼の涙はきっと、僕の代わりの涙だと思った。
「あの、名前訊いてもいいですか?」
涙を拭うと、自分の名刺を差し出して訊いてきた。
「藤野光瑠です」
「どう書くんです?」
「光るに瑠璃色です」
「素敵な名前ですね」
本来ならば、僕も名刺を差し出す所だが生憎名刺も手放した。身分を証明するものは、いつだって肩書きしかないのだろうか。人本来の価値の有無に疑問さえ抱く。
それでも彼は僕が藤野光瑠だと疑っている様子はなかった。だがすぐに思う。初対面だから例え僕が偽名を伝えようとも疑う余地などない。彼はきっと。
「何て呼べばいいですか?」
「なんでも、いいです」
「じゃあ光瑠さん」
彼は優しく微笑みながら僕のことをそう呼んだ。どうせ死ぬというのに、親密な関係など築くつもりもないのに、きっかけを作ってしまったのは間違いなく僕だった。ほんのり胸の奥が温かくなる感覚が、無性にそわそわして居心地が悪く罪悪感のようなものが纏わりついていた。
僕はそんな感情を誤魔化そうと、彼の頼んだファジーネーブルに口をつけた。すると突然、彼は酷い形相でグラスを持つ僕の手を握って押さえつけた。勢いが凄まじく、ファジーネーブルが少しばかり空中を跳ねて零れた。
「何してるんですか!」
大きな声が店の中で反響した。
「なにって……」
「これは酒ですよ! 病人が酒なんて飲むものじゃありませんよ!」
怒られた。
彼は眉間に皺を寄せながら僕からグラスを取ると、さっき僕に使った瑠璃色のハンカチで僕の手を丁寧に拭いた。その様子を僕は黙ってみていた。
怒られることは初めてではないが、何かが違う様だった。勿論母さんも僕を叱ることはあった。会社ではミスをすれば厳しく叱責された。あれは精神的に参ったが。
彼の言動は、不覚にも僕の心へ刺さった。
「医師は酒を飲むなとは言わなかったから……」
気づけば言い訳を探して言葉を発していた。尚彼は僕を叱った。
「医者じゃないので詳しくは知りません。光瑠さんの病気に酒は影響しないかもしれないけど、酒は飲まなくてもい」
彼にとって大事なことは、名刺や身分証に記載されているものではないようだった。
「でもこれはあなたが頼んだ……」
「話を聞く前だったので。すみません」
結局彼は二杯のファジーネーブルを胃へ流し込み、僕は代わりにオレンジジュースを貰った。
「治ったら、一緒に酒飲みましょうね」
飲みきった後、彼がそう言った。治るという未来も、また再会する未来もないのに、そう言って笑ってくれたその顔に胸がぎゅっと締め付けられて、苦しかった。
暫く沈黙しているとマスターがやってきた。マスターの目線の先は彼だった。酔っ払ってしまったのだろうか。横目で彼を見ると顔が赤く染まっていた。
「寝るなよー」
マスターが声をかける。
「酔ってないですって。そろそろ帰りましょ光瑠さん」
僕は慌てて、残りのオレンジジュースを流し込んだ。昔からずっと大好きなオレンジジュースは、この時だけ酷く甘かった。
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