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 死は嫌って程に知っている。そして心底大嫌いだった。


 僕が生まれて少し経った頃、父親は事故死した。即死だったそうだ。僕の昔の記憶と言えば、母さんが泣いてる姿ばかりだった。父親との記憶は一つも残っていなかった。僕が大きくなるにつれて母さんの涙は減った。死は時間が解決してくれるものなのだろうか、と幼いながら考えたりもした。その答えは今なら分かる。その悲しみは一生癒えることはないということ。大人だから、もう過去のことだから、そうやって自分に言い聞かせて涙を隠していただけなのを、母さんが死んだ後に知った。母さんが死んだ時、僕は二十歳になったばかりだった。片親だと噂する声に崩れることもなく全身で愛を注いでくれた母さんは僕の全てだった。僕は母さんの頑張りを一番近くで見ていた。初めて稼いだバイトの給料は母さんのために使った。免許を取った年には母さんを旅行に連れて行った。そんな母さんの愛に僕は溺れていたのかもしれない。母さんは病死した。余命を告白されたときは全身が震えだしてまともに声を出せなかった。あの時の事を考えると今でも震えが止まらなくなる。僕の全てを奪った死が憎くて、仕方がない。


 それなのに、今は少し、死に感謝していた。僕の意思以外で死ぬことができるのだと。漸く、母さんの元へ帰ることができると。

 勿論、自分が死ぬと知った時、所詮僕の人生はこの程度だと落胆したのも事実だ。


 けれど考えてみれば違った。母さんに出逢えたことを不幸な人生とは思えない。母さんが母さんでいてくれたことは僕の人生の最大に幸せな出来事だったろうと思う。母さんに会いたいという強い気持ちが、漸く形になって現れたのだろう。死が母さんとの永遠を結んでくれる。これは喜んでいい事だ。思えば病院に行こうと決めたのも、明日と天秤にかけた結果行くことを決めていた。そうか、と。僕は死を早く手に入れたくて明日を天秤にかけたのかもしれない。そう思うと僕の思考も一貫性を持った。



 家に着くと、ゴミ袋を片手に掃除を始めた。部屋にあるもの全て、要らないものだった。全て捨てて、そうしたらこの世に未練がないことが視覚的にもよくわかるだろう。


僕の居場所はもうここではない。ここにはない。


 こうやっていざ全てを捨ててみると、無駄なものがたくさんあったことに気付かされた。企画書も、データも、本も、服も、鍋も皿も包丁も、どれもが邪魔な物だった。結局、大事なものなど大抵ないのだ。

 最後のゴミは携帯だ。会社に一方的に退職することを告げ、地面に投げつけた。相手が何と言ったか、息遣いも、何もかも聞く前に壊した。思っていたよりも脆かったようで、携帯はバキバキに割れて起動しなくなった。

 ゴミを捨てた後片手に抗がん剤をもって、大家さんの元へ行き退所の連絡をした。


 財布の中にあった現金はコンビニに置いてある募金箱に全て流し込んだ。店員は驚いた顔をしていた。

 財布の中にはいろいろなカードが挟まっていた。もういらない、そう思って捨てようとしたがその時財布の中にあったあるものが目に入って、僕の気はそちらに向かれて、暫く眺めた後財布の口を閉じ歩き出した。


 そうして、抗がん剤を飲んだ。副作用がでれば完璧だった。案外簡単に事が済んだ。重荷だったものはもう何もない。僕は自由になった。



 しかし夜になってもそれは来る気配を示さない。計画通り進めば、抗がん剤の副作用で心身ともに弱っていき死ぬと思っていたのに、途端に計画にブレーキがかかった。だが焦ることなく僕は死んでいく自分を想像しながら夜の街を徘徊した。


 死ぬことが怖くないと言ったらわからないが、どんなに足掻いても結局は死ぬのだから怖いとも思わない。母さんは死ぬとき何を思ったのだろう。あっちで父親に会えることを楽しみにしていただろうか。僕との別れに胸を痛めながらも、心の片隅でそう思っていてくれたらと思う。あっち側に愛する人がいるだけで救われるものだ。


 その時、急に右肩にぬくもりを感じ体が強張った。顔をあげると、目の前には綺麗な顔をした男の人が立っていた。


「あの、大丈夫ですか? 具合悪いですか?」


その人は眉間に皺を寄せた表情で僕にそういった。今は残念なことに胃も痛くないし吐き気もない。ただ病魔に侵されているだけで、他人には具合が悪そうに見えてしまうのだろうか。

 困惑し黙っていると、彼は慌て出した。


「ほ、本当にどうしたんですか?」


彼はポケットから瑠璃色のハンカチを出してきた。何に使うのだろうとそのハンカチを目で追っていると視界いっぱいに瑠璃色が広がった。


「え、なに」


何をされているのか理解できなかった。


「なにって、あなた、泣いてるから……」


泣いているという単語を聞いてハッとする。


まさかという思いで、自分の手を目や頬にあてる。生ぬるい水が、確かに目から流れ出ていた。

 自分が泣いている事がわかると、急に感情が溢れた。僕は必死で声を抑えながら泣きじゃくっていた。


 心の奥底に沈んでいたものが、形になって外へ放出されていく感覚。だけどそれはどれだけ形に変わっても、減ることはないようだった。泣き止む時はいつも強引に押し込むしかなかったのはそのせいだったのかと気づいた。

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