生きる(仮タイトル)

とがわ

一章 

1 

 就寝へのスタートを踏み切った直後のこと。微睡の中で着信の音が微かに聞こえた。半開きの目でスマホを捉えた後は、瞼を下ろしながらスマホ画面の応答ボタンを押した。耳元に持っていくのは面倒だったからスピーカーにした。部屋中に電子声が、響く。


 こんな小さな電子機器で簡単に人生が変わってしまうのだから感心する。


 三年付き合っていた女性から一方的に別れを告げられた。いや、一方的とはいえ文面ではなく電話で告げたことは彼女の僅かな敬意だろうから、褒めてもいいのかもしれない。それでも、こんなものかと落胆した。トンカチで思い切り頭を殴られたような感じはなかったものの、多少なりともショックだったのか、胃のあたりがズキズキと痛んだ。


 また孤独かと嘆いてみても現状は勿論変わらない。睡魔は別の人へと飛び去ったようだった。


「痛い……」


 深海の奥底に大きな岩を投げられたみたいだった。底に溜まっていた黒いモノが煙幕の如く舞い上がる。


 途端、今度は吐き気がした。まずい。寝起きの身体はいつもより怠くて動きが鈍くなる。ふらつきながらもできるだけはやく、はやくと己を急かしてトイレへ直行した。吐きながら、少しだけ涙がでた。自分の涙との再会は随分と久しぶりな気がした。



 気づけばトイレで眠っていた。扉の向こう側から携帯のアラームが鳴り響いていた。起きたらトイレなど気持ち悪くて、また吐き気を催しそうな程だった。だが、体はやはり少し楽になっていた。


 目が覚めてカーテンの隙間から明るい光りが入り込んでいる様子を見ると、昨夜がまるで夢のようにも思えた。しかし着信履歴の一番上はやはり彼女だった。結婚を考えていたのは僕だけだったのだろう。独りよがりほど醜いものはないなと、鏡の前の自分へ笑って見せた。


 なんてぎこちない笑顔だろう。


彼女にやり直そうとか、考え直してとか、いう気力はない。簡単に諦められる程度に、どうでもいい事だったのかもしれなかった。


 カーテンを思い切り開けた。窓の向こう側は目が痛くなるほどに眩しかった。例え何があろうと、朝日は定刻通りに昇るのだ。

 スーツを身に纏い今日も出勤らしい。財布を開いて一枚の写真を見つめる。胸の奥がぎゅっとなる。


 外は僕の心とは裏腹に無駄にいい天気だった。

 そういえば、あの日もこんな快晴だったなと思い出す。皮肉なものだ。僕の心の傷を抉るのはいい加減にしてほしいのに。




「飲み行くぞー」

 勤務後、上司が言った。僕は来たかと内心思いながらひっそりと溜息をつく。女性社員たちは狙っている男がいるのか、きゃっきゃしていた。


「お疲れ様。藤野は飲み会いく?」


同僚が話しかけてきた。僕は行くと答えた。


「だよなぁ。行っといたほういいよねこういうのはさ」


 本音は勿論欠席だ。しかしどうせ三か月に一回程度の頻度だし、程よく付き合っておくのがきっといいだろう。それに今夜はやけ酒が美味い気がした。


 しかしその数時間後には来た事を後悔した。ここのところやけに上機嫌だった上司は先日籍を入れたそうだ。実にタイムリーな話にやるせなくなった。


「大丈夫だって、すぐ良い人みつかるよ」


隣で僕の不貞腐れた態度を見ていた同僚は、簡単にそういうがそれは既婚者の余裕からだろう。子供もいて、毎日愛妻弁当を持って、幸せそうに笑う同僚はいつも眩しくて、たまに妬ましくなる。


 彼も上司も、簡単に幸せを掴み取ったわけではないだろう。こんな感情を抱くのはお門違いだと分かっていても心は窮屈だった。


「やばい、気持ち悪い」


途端、吐き気がしだした。今朝と同じだ。


「おいおい、平気か? トイレ行こ」

「いい、帰る」


 上司に頭を下げ金を置いて店を出ると、少し冷たい風が頬をそっと撫でた。自然と気持ちが楽になる。扉の奥から楽しそうな声が聞こえてくる。つい先ほどまで自分もそこにいたというのが不思議に思えた。例え僕一人その場からいなくなっても、誰も悲しまないし変わらないのだと突き付けられる。一度楽になった体は、またぶり返した。


 帰宅後、トイレへ直行した。よく我慢できたなと自分で思ったが褒めてくれる人は誰もいない。胃から戻ってくるそれが喉の奥から流れ出た。その感覚が不快で、更に吐き気を促した。強くもない酒を無理やり飲み続けた結果だ。今朝は昨晩のことを遠い過去のことのように思ったのに、夜が訪れると昨晩と、それからずっと過去の記憶までもがすぐ傍で蘇った。そうして僕は、また泣いていた。


 ご無沙汰だった涙と、こうも簡単にまた再会してやはり僕は彼女の喪失のダメージを大きく食らっているのだろうか。いや、それだけではない。喪失。僕には喪失以外ないのだろうか。一人で声を押し殺して泣いた。子どものように大きな声で泣いても、誰も気づいてはくれないから。


 暫く泣いた後、無理やり吐き気と涙をのみ込んでトイレを出た。連日でトイレの中で目覚めるのを避けるために早いうちにベッドへ戻った。風呂は明日の朝でいい、そうやって無理やり明日を受け入れたところで眠りにつこうとした。しかし、できなかった。胃のあたりがズキズキ痛む。吐き気もましになっただけで治らない。僕はベッドの中でまるでダンゴムシのように丸まった。


 暫くの間体を丸めていた。ダンゴムシの気持ちがわかりそうになってきた時、外から鳥のさえずりが鼓膜をノックしてきて、絶望した。一睡もできず、痛みと共に朝を迎えてしまったらしい。出来る限り有給は使いたくないのだが、やむを得ない。更にはこの痛みは不吉な気がした。


 痛いと思えば思う程痛みの沼にハマっていくかのようにキリキリした。病院へ赴くのは躊躇いがあるが、明日とを天秤にかければ行くのが最善の選択だった。


 会社に電話をいれた後、病院の時間を確認し、最低限の服装に着替えると前傾姿勢を保ちながら駅へ向かった。人々が行き交う中、空は相変わらず快晴だった。




「え?」


 それは疑いとかショックとかそういうのではなく、単純に理解が追い付かなかった結果の、間抜けな声だった。

 パソコンとレントゲンを前に、白衣を着た先生はもう一度言った。


「胃に腫瘍ができています」


 一週間前、同じ先生に症状を訴えた。勿論長年付き合っていた恋人に振られたことは伏せて。先生は僕にいくつかの質問をし、はいかいいえの二択で答えさせられた。終えると、二つの検査を受け一週間後にまた来てくれと言われ、今ここにいるわけなのだが。

 先生の言った言葉を改めて脳裏で再生する。思えば、最初の時から先生の表情は最悪のケースを予感させていた。


「腫瘍ができてるんですね。えっとそれって僕の胃ですか?」

「ええ、あなたの胃で間違いありません」

「……あぁ。そうなんですか」


納得したわけではなく、その場しのぎの同調に似ていた。僕は一先ず頷いて先生の話を聞いた。落ち着いて聞いてくださいと前置きをされた。今の状態ならば何も感じず冷静に話を聞ける自信さえあった。


「リンパ節転移が見られます。通常の手術で根治するのは難しい状態です」



 気づけば、僕は病院の外にいた。今も先生の言葉がすぐそこの過去で言われたかのように真新しいものとして鼓膜を震わせていた。

 どこかで鳴った車のクラクションで僕は我に返った。運転手は僕をきつく睨みつけながら横を通り過ぎていった。右手には抗がん剤らしきものが入った白い袋を握っていた。軽かった。


 取りあえず、ここで立往生していてもどうしようもないだろうから家へ向かうことにした。歩きながら先生の言葉を思い出す。僕は胃がん。胃の痛さも吐き気もそのせいだったらしい。ステージⅣは即ち完治はまず無理な状態。今の医療では抗がん剤や免疫療法の道での治療しかなく、その副作用は個人差はあるものの、ほとんどのケースで酷い。


 いざまとめてみると、案外すっきりした話だった。スマホで胃がんステージⅣの余命を調べてみると、半年から一年だとか。まるで他人事のようにすんなり納得した気がする。


 僕は死ぬらしい。所詮そんなものだよな、と無駄にいい天気な空に向けて嫌味如く呟いた。

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