第05話 狙うは、家康の首のみ

 徳川軍は既に、国分まで進出していた。後藤隊は、身を潜め、石川を渡ると、徳川軍が避けた小松山を占領し、そのまま、寝込みを襲うため、明け方を待った。

 朝方、基次は、片山村方面から徳川軍に向け「かかれ~」と、隊に命じた。基次は、作戦が既に破綻してしまっていることを悟っていた。それでも基次は、陣を構えた。基次隊が小松山に布陣していることを知り徳川軍は水野勝成の言う通り、基次隊を挟み撃ちすべく包囲するように陣営を構えた。

 それでも基次は、徳川方・松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛け奥田は討つ。松倉勢は崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が救援し、辛うじて命拾いしていた。 

 善戦する後藤基次軍に対して、小松山を包囲した徳川軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加えた。基次勢は、次々に繰り出される徳川軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。


 「怪我をした者は下がれ~。我らは、徳川軍を攻撃する」


 包囲され、退路も絶たれた基次は、負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、徳川軍に突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生。更に伊達勢の銃撃により、基次は被弾する。約8時間もの激闘の末、「もはや、これまでか…」と、基次は戦死。主を失った後藤隊も壊滅し、薄田兼相・井上時利が討死した。その頃、やっと第三軍の毛利勝永隊が藤井寺村に到着していた。


 「申し上げます。後藤基次様、薄田兼相様・井上時利様が

戦死なされました」

 「な、何と…。ここは、我らだけで戦うは、愚かなこと」


 真田隊は渡辺糺隊と合流し、真田隊を待つ毛利勝永の右を擦り抜け、苦戦している第二軍の北川宣勝隊の救出に向かった。幸村らは北川隊を救出すると、徳川軍の追撃に備え隊伍を整え敵を待った。


 幸村たちは、徳川軍から逃れ後退した豊臣方の蒲田、明石、山川らの残余の兵を収容し、誉田こんだ村付近に着陣した。

 それを見た伊達勢の片倉重長は、部隊を前後二隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。真田勢は鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せさせ片倉勢の接近を待ち迎え撃ち、伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ。その後、幸村たちは、半里に満たない近くの道明寺に到着していた毛利勢と藤井寺辺りで合流した。

 徳川軍は、道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、幸村たち豊臣軍は、藤井寺から誉田の西にかけて布陣した。

 誉田村を挟んで両軍は対峙し、にらみ合いの状態に。小競り合いから、両軍入り乱れての戦いとなり、幸村の息子・真田幸昌や渡辺糺が負傷する。


 両軍の兵の疲労度は、頂点に達していた。


 伊達勢の片倉重長は、兵を退かせた。それを真田隊は追撃をかるが、他の伊達軍の部隊が援護に駆けつけて来た為、仕方なく、真田隊は西に兵を退かせた。

 徳川軍は大軍であり、家康・秀忠の指示が隅々まで行き渡らず、各武将の意志で闘う事も少なくなく、隊列が綻びを見せ始めていた。この機を逃すまいと大野治長は真田幸村らと話し合い、豊臣秀頼の出馬は今しかないと考え、大阪城に戻る事にした。内通者と疑われていた幸村は秀頼の不信感を払拭するため自らが人質になる覚悟だったが、藤井寺の戦いで太腿に怪我をした長男・大助を向かわせた。幸村はある思いを大助に託していた。


 「大坂城に戻って秀頼公をお守りせよ」

 「私は最後まで父上と闘いたく存じます」

 「頼もしいのう。父も同じよ」

 「ならば…」

 「そなたに大事な頼みがある。万が一、秀頼公の自害を見届けた後に、自身も武士らしく最期は自害せよ。私も同じよ。それで我ら親子は共に戦った証と致そうではないか」

 「父上…」


 大助は、父・幸村の意志を受け秀頼公を守るため大野治長と共に大坂城に戻る。その際、大野治長は致命的な失態を犯す。秀頼の馬印を揚げたまま戻ったのだ。これを見た豊臣軍と徳川軍は、豊臣が敗北を認め大坂城に戻るという噂が両軍に衝撃を与えることになった。大坂城では戦況を重んじて兵の激減に苦慮し、体制を整え直そうと案じていた。

 

 5月6日、午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は、幸村を殿軍とし、午後4時過ぎから順次、天王寺方面へ撤退を開始した。


 「この機を逃す手はない。ここは一機に攻め落としましょう」


と、徳川方、水野勝成は追撃を主張した。


 「いや、待たれよ。我らの兵の疲労は激しく、望む成果を挙げられるかは定かでありませぬ。ここは、立て直しを」


と、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。


 豊臣軍は、徳川軍の追撃に備え毛利隊の一部を残し、付近の民家を放火して撤退した。この時、八尾・若江の戦いで大坂城近くまで豊臣軍が出張ってきていた為、行く手を阻まれ幸村らは、本道が使えず支道を使って一旦、大坂城まで戻った。


 道明寺・誉田の戦いでの徳川軍の死者は、180名で負傷者は230名。豊臣軍は、死者210名でだったが、勇将を多数失い、徳川軍とは比べ物にならないほどの大打撃を被った。


 5月7日未明、豊臣方は大坂城を出発し、迎撃体制を布いた。

 天王寺口は、茶臼山に真田幸村、幸村の子の幸昌、一族の信倍ら兵3,500。幸村が陣を構えるその前方に、幸村寄騎の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら兵2,000。茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら兵2,500。茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋(兵数不明)、四天王寺南門前には、毛利勝永勢と、木村重成勢や後藤基次勢の残兵など6,500が布陣した。岡山口は、大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4,600が布陣した。茶臼山北西の木津川堤防沿いに、別働隊・明石全登勢300、全軍の後詰として、四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊が、布陣した。


 豊臣方の策は 徳川方を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、解隊し順次叩く。敵を四天王寺に丘陵地に引き寄せ、横に広がった陣形を縦に変えさせ、それによって、本陣を手薄にさせる。そこで、別働隊の明石全登を迂回して、家康本陣に突入させる。それが叶わない場合、別働隊が、敵本陣の背後にまわった所で狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟い場所で攻撃する。そして、宿敵、家康を討つ。と、言うものだった。


 一方、徳川方の軍勢は、夜明け頃、天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始。天王寺口先鋒に本多忠朝を大将にした、秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら5,000。二番手に榊原康勝を大将とした、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら5,400。三番手に酒井家次を大将とした、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら5,300。その後方に徳川家康の本陣15,000を布いた。

 岡山口は、先鋒・前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら20,000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎ら7,500と、細川忠興隊。その後方に近臣を従えた徳川秀忠の本陣23,000を布いた。茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配した。


 大坂城に戻り、戦況を把握した幸村の本陣は、今は大坂茶臼山にあった。大坂城を守るのではなく、飽くまでも家康の首を狙う為だった。その為の策を携えて。


 「よいか、敵の大軍は鉄砲を撃ちかけ、歓声を上げながら、討ち寄せて来る。この敵を引きつけるだけ引きつけよ。身方は、次々に倒れるやも知れぬ。耐えに耐え抜くのですぞ。反撃を受けずして、進撃する関東勢を見れば、気を良くした家康なり秀忠の本陣も釣られて進んでくるはず。ならば、我らとの間も縮まる。ぎりぎりまで引き寄せて、これを一機に打ち破り、本陣に迫る。狙うは、家康本陣のみぞ」


 幸村は、背水の陣での策を自らの陣営に確認していた。


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