第04話 統制軍 vs 烏合の衆

 家康は、河内路及び大和路から軍勢を二手に分け同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うこと。二手の他、紀伊の浅野長晟あさながあきらに南から大坂に向かうように命じた。


 徳川軍は、河内・大和・紀伊方面より大坂城へ。


 大和方面軍の先鋒大将は、水野勝成。総大将・松平忠輝、後見役・伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていた。

 26日、豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(郡山城の戦い)、付近の村々に放火。28日には、徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。

 治房勢は、紀伊の浅野家を狙っていた。浅野家は、豊臣家と縁が深かったが、冬の陣では徳川軍として参戦し、夏の陣でも再三の招きにも応じようとしなかった経緯があった。豊臣軍は徳川軍の出鼻を挫こうと、浅野家攻撃を図る。まず、大野治長が、紀伊国内の土豪層などに一揆を起こさせるのと同時に大坂城からも出撃し、浅野軍を挟み撃ちにしようと企む。浅野軍は、豊臣方の攻撃を予測し、警戒していた。


 「国元に不穏な動きが御座います」

 「一揆か」

 「豊臣方と土豪層が結びついたとの知らせが御座います」

 「御意」 


 浅野長晟は、この一揆を知り、危険回避を兼ねて、他の徳川軍が来るまで出陣せず待機していた。そこへ京都所司代の板倉勝重より「急ぎ大坂へ出陣するよう」にと、命令が入った。

 28日。長晟は、5,000の兵を率いて戦場ではなく、大坂城を目指した。密告者から佐野に着く頃には、ら一揆の詳しい計画と一揆勢を指揮しようとしていた治長の部下・北村善大夫らを既に捕えていた。

 浅野家が大坂に向かったことを知らない豊臣軍は大野治房を主将とし、塙直之、岡部則綱、淡輪重信、新宮行朝ら3,000の兵に和歌山を目指して出撃させた。豊臣軍は途中、岸和田城を落とそうと攻撃したが、城主・小出吉英は守り抜き、敵を近寄せなかった。


 「治房様、浅野軍が北上しております」

 「何と、浅野が。このままでは我らが挟まれるではないか」

 「治房様…」 

 「…南下じゃ、岸和田城に備えを残し、貝塚に向かうぞ」


 一方の浅野軍は、佐野の市場(地名)にいたが、豊臣軍が20,000の大軍で攻めて来るという出処不明の報告を聞き大混乱となっていた。

 浅野良重は


 「ここで死守するべきだ」


と主張したが、亀田高綱は

 

 「このような平地で大軍を迎え撃つのは不利だ。それよりも樫井まで退却して、松林を前にして防戦すれば敵に人数も知られず、かつ大軍を展開されることもない」


と反対し激論の末、斬り合いになりかけたのを慌てて止めた。そこで浅野長晟は決裁する。


 「撤退を良しとする」


 良重は、最後まで粘るも結局は退却を余儀なくされた。


 豊臣軍でも小競り合いがあった。貝塚を出発していた塙直之と岡部則綱が自分が先鋒だと争い始め、暴走して進んだ挙句、口論となった。それを淡輪重政が収め、不穏な空気の中、進んでいた。

 豊臣軍の先鋒は安松に着いたと頃、浅野軍の亀田高綱隊の待ち伏せにあい、射撃され、20~30の兵を失った。亀田高綱は、少し退いては豊臣軍と距離を置き、射撃するという戦法を取り、豊臣軍先鋒を徐々に追い込んでいった。豊臣軍は、業を煮やしていた。


 「尻の毛を一本一本抜かれているようじゃ、ああ、じれったい。ここは一気に襲い掛かり、白兵戦に持ち込み一網打尽にしてやるわ」

 ※白兵戦(刀剣、槍など近接戦闘用の武器を用いた格闘)


 遂に樫井で浅野軍に追いつくやいなやそこへ浅野軍援軍の上田重安隊が駆け付ける。これによって、功を焦った豊臣方軍の塙直之と、岡部則綱と仲介役になった淡輪重政が戦死(樫井の戦い)。

 勝利した余裕から浅野軍は国元が気掛かりになり、大坂へ向かうのを止め、紀伊で画策された一揆への対策に向かった。


 豊臣軍の本隊は、貝塚の願泉寺にあり、了閑という僧の策略で、饗応きょうおうを受けていた。そこへ、樫井の戦いの敗残兵が駆け込んできた。


 「何事じゃ」 

 「も、も、申し上げます。先鋒の塙直之様、淡輪重信様が戦死」 

 「何と…、先走りよって…。了閑殿、お聞きの通り、これにて御免」


 豊臣本隊は、急ぎ樫井へと向かったが、目にしたのは、無残な残骸だった。


 「何と…言う有様か…」


 到着時には、組み易しと踏んだ手負いの徳川方・浅野軍は、退却した後だった。


 「各々おのおの方、帰城致す」


 大坂城へ引き返す際、豊臣本隊は、最後尾の異変に気づく。隊を反転させた時には、岸和田城に籠もっていた小出吉英・金森可重らに迂闊にも背後を取られて、追撃され、数十人が討ち取られていた。

 統率と敵の動きを把握していた徳川方・浅野軍に対して、各々が勝手に戦った豊臣軍。当然の敗北だった。


 先制攻撃、野戦、武力行使を唱えた気性の粗さで突き進む大野治房、自らの軍を信じる真田幸村たち主戦派の気概は、足元から崩れ落ちた。結果として、力量を推し量り、把握する大野治長の考えが正しかったことが証明された。


 正に、豊臣軍の最大の欠点が浮き彫りになった樫井の戦い。


 幸村は思い起こしていた。

 4月30日。徳川軍の襲来間近の大坂城では、豊臣家上層部と浪人の間でどうやって対処するかが話し合われていた。


 「大坂城南の四天王寺辺りで終結した徳川軍を迎え撃ちましょう」


と、幸村は主張した。後藤基次が、それに反論した。


 「四天王寺辺りは、交通の要所ですぞ。大軍を相手に戦うのは不利で御座いましょう。それより、山に囲まれ道が狭い国分周辺に陣を敷き、大軍の力が発揮できないようにするのが一番ではあるまいか」


と、譲らなかった。話は平行線を辿り、結局は、幸村が、冬の陣で後藤基次から真田丸の陣地を譲って貰った事もあり、国分方面への出撃に合意した。5月1日。第一陣の後藤基次・薄田兼相・井上時利・山川賢信・北川宣勝・山本公雄・槇島重利・明石全登隊、約6.400が平野を目指し出発。続いて、第二陣の真田幸村・毛利勝永・福島正守・渡辺糺・小倉行春(作左衛門)・大谷吉治・細川興秋・宮田時定隊、約12.000が天王寺を目指し出発した。真田幸村と毛利勝永の二人は、後藤基次の陣を訪れ、酒を酌み交わしていた。


 「我ら、道明寺で合流し、夜明け前に国分を越える」

 「お~、それにて、狭い場所で徳川軍を迎え撃つ」

 「我らが死ぬか、両将軍の首を取るか取られるかまで、戦おうぞ」

 「お~」


 何かをふっきたように談笑し、訣別の盃を酌み交わした。その頃、水野勝成を総大将とする徳川軍の大和路方面軍先発隊の堀直寄・松倉重政・別所孫次郎・奥田忠次・丹羽氏信・中山照守・村瀬重治軍、約3,800は国分に宿営していた。


 「国分の先の小松山に陣を置くのが良いかと」


と、主張した。それに対し水野勝成は


 「小松山を陣地にすれば敵襲を支えることは難しい。それよりもこのまま国分に陣を敷きましょう。国分ならば、敵が小松山を取ったとしても、回り込んで挟み撃ちにできましょう」


と主張し、小松山に陣を置かなかった。


 夜、伊達政宗軍10.000、本多忠政軍ら5.000、松平忠明軍3,800が到着。政宗は、豊臣方の動きを読んで、片倉重長に小松山の山下に一隊を伏せさせ、夜通し警戒するよういに命じた。その頃、後列である松平忠輝軍12.000はまだ、奈良にいた。


 6日午前0時頃、豊臣方・後藤基次隊2,800は、平野を出発。夜明け頃に藤井寺に着き、真田隊などを待っていた。


 「幸村殿、勝永殿はまだ、見えぬか」


 真田隊は、まったく来る気配がなかった。濃霧の為、時刻を誤っていた。また、大半が浪人の為、行軍に慣れておらず、到着に大幅な遅れをきたしていた。


 「このままでは戦機を逸すではないか…」


 後藤基次は思案の末、待つのを止め、そのまま、誉田経由で道明寺に出た。そこには驚きの光景があった。


 「あ、あれは、徳川軍ではないか」


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