猫
その日の夜。
公園のベンチに座るチェシャ猫は、物音に反応して頭上に目を向けた。真上には大きなドングリの木が立っている。その木の葉の中に、月に照らされたシルエットが浮かぶ。にゃあ、とか細い声が降ってきた。
本当に猫が多い、と、チェシャは思った。
チェシャ猫を不思議そうに見下ろしている木の上の猫のみならず、背後の植え込みにもちらほら猫の影を見かけている。
公園の中央の噴水は、水を噴き出すのをやめて静かに佇んでいる。溜まった水がきらきらと、街灯の灯りを受けて星を宿している。
猫は数匹確認されたが、人の気配はない。チェシャ猫はベンチの背もたれに背中を預け、目を閉じた。耳を澄ませて、周囲の音に集中する。
小栗がレイシー猫らしきものを見かけたのは、予備校のあと、夜の十時台だと話していた。レイシーの行動パターンは読めないが、同じ時間帯に同じ場所に現れる可能性は高い。
小栗が見た灰色の猫は、死んだ子猫を咥えてどこかへいなくなったという。レイシー猫は、猫の死骸を拾うらしい。
ジャリ、と、砂のこすれる音がした。人の足音だ。チェシャ猫は背もたれから背を浮かせ、辺りに目を配った。
公園内に入ってくる、人影を見つける。なにやらきょろきょろと落ち着きがない。その人物に街灯の光が差し、顔が浮かび上がる。
やや幼い顔つきに、細身の手脚。鞄を肩にかけてゆっくり歩くのは、小栗であった。
彼はなにかを探すように周囲を見渡し、そして噴水の縁に座った。手のひらを擦り合わせて、息を吐きかけている。そこから動く様子はない。
痺れを切らし、チェシャ猫は立ち上がった。小栗が腰掛ける噴水に歩み寄り、声をかける。
「おい。あんた」
「うひゃあっ!」
小栗は全身で飛び上がって、チェシャ猫を振り向いた。
「な、なんだ、チェシャさんか。びっくりした、本当に気配がない」
「あんた、こんな時間になにしてんだ」
「予備校の帰りです。あ、ここ座ってください」
小栗はチェシャ猫に、自分の隣に座るよう噴水の縁を叩いて促す。
「チェシャさんこそなにしてるんですか? もしかしてチェシャさんも、猫殺しの犯人を捜して?」
「猫殺し?」
チェシャ猫はベンチには座らず、質問返しだけした。小栗は諦めたように、ベンチを叩いていた手を自身の膝に置き直す。
「ほら、シロさんも言ってましたけど、猫が死んでるなら殺してる人がいるのかもしれない。もしいるなら、その犯人を突き止めようと思うんです」
「来るかどうかも分からないのにか?」
「そうですけど。予備校の帰り道なので、ついでにですね。もし怪しい人がいるとすれば、行動を起こすのは夜でしょ。警戒してる人間がいるというだけで、犯人は猫殺しをやめるかもしれない。だからとりあえず、見張れるだけ見張るんですよ」
そう言って小栗は、両手を噴水の縁に突いた。脚を投げ出して見上げてくる彼に、チェシャ猫は嘆息を洩らした。
「危ないからやめろと、シロさんから言われていただろう」
「んー、でも……そういうチェシャさんだってここにいるじゃないですか」
チェシャ猫にとって、ここに小栗にいられるのはかなり都合が悪かった。他人の目のない場所でレイシー猫を駆除するまでが仕事だというのに、小栗にいられては叶わない。
ふいに、ガサガサと木の葉が揺れる音がして、それと共に猫の鳴き声が落ちてきた。先程から木の上にいた猫が降りてきて、チェシャ猫の足に擦り寄っている。街灯に照らされた毛皮には、淡いクリーム色に茶色の縞模様が入っていた。小栗があっと高い声を出す。
「かわいいトラ猫。この公園の猫、随分人馴れしてる子が多いですよね」
「餌撒いてる奴でもいるんじゃねえの」
チェシャ猫は足にまとわりついて餌をねだる猫を一瞥しただけで、払い除けるでもなく放置した。そのまま、声だけ小栗に向ける。
「そんで、仮に猫殺しがいたとして。あんたはそいつと対峙して、どうするつもりなんだ?」
「どうするって……」
小栗はやや言い淀み、目線を泳がせた。
「まず、どんな理由があって猫を殺すのか、話を聞きます。俺の納得できる理由じゃなかったら、俺の意見を伝えて、猫殺しをやめるように説得します」
小栗がだんだん、早口になっていく。
「俺は、理不尽なのが嫌いなんです。どんな理由か知らないけど、正当な理由がないのなら命を奪っていいはずがない。そう思いませんか」
「ふうん」
チェシャ猫はぽつりと、白い息を吐いた。
「あんたは賢い人間だから、いろいろ考えてるんだろうな。そんなあんたがこんなことに首を突っ込む必要はない。早く帰らないと、家族が心配すんぞ」
「チェシャさんが帰らない限りは帰りません」
小栗は両手を突いた姿勢のまま、立とうとしない。チェシャ猫の足元では、まだトラ猫が餌を待っている。チェシャ猫はしゃがんで猫の頭を撫でた。てこでも動かない小栗が面倒で、彼はいつも以上につっけんどんな声色で問う。
「灰色の猫は、しょっちゅう、見かけるのか」
「ああ、愛莉ちゃんの知り合いが捜してるっていう猫ですか?」
懐っこい猫は、チェシャ猫の手に額を擦り寄せて喉を鳴らしている。小栗は突いていた手を浮かせ、自身の膝に置いた。少し前屈みになって、チェシャ猫の足元の猫を覗き込む。
「昨日見た猫なら、俺は昨日の一度しか見てないです。いや、見てるかもしれないけど、記憶に残ってるのはそのときだけ」
「そうか」
チェシャ猫が短く返事をした、その瞬間だった。シャリ、シャリと、砂利が掠れる足音が聞こえてきた。ふたり同時に、音の方へ目を向ける。
チェシャ猫の手に撫でられていたトラ猫が、ぴんと耳を立てた。にゃあんと甘えた声で鳴きながら、公園の入口へと駆け出していく。
入口付近の街灯に照らされていたのは、
小栗の声に緊張の色が差す。
「猫が真っ直ぐ向かっていった……。あの人、日頃からここへ来て、猫になにか与えてるのかも」
ダウンの男は、辺りを見回していた。チェシャ猫と小栗の姿は見えたであろうが、特に気にもしない様子で彼らと対角線上の植え込みへと向かって歩いていく。ふたりに背を向けて暗がりに座り込むと、どこからともなく猫の鳴き声が増えて聞こえてくる。男の手元から、カサカサと袋を探るような音がした。
途端に、小栗が立ち上がる。
「やっぱり餌やってる。毒かもしれない!」
「待て」
チェシャ猫が制するも、遅かった。小栗の声に、ダウンの男を囲んでいた猫たちが、わっと逃げていった。男自身もびくっと肩を弾ませる。
小栗はずんずんと砂利を踏みしめ、背中を丸めるダウンの男の方へと歩み寄った。
「なにを与えてるんですか? 見せてください」
「おい、よせ」
チェシャ猫も腰を上げ、小栗の腕を掴んだ。しかし小栗はチェシャ猫を引っ張って進んでいく。
「見せてください!」
ダウンの男が、強張った顔で小栗を見上げる。
「た、ただ……猫に、餌をやろうと」
余程驚いたのか、それとも人との会話に慣れていないのか。ダウンの男の返事は、素っ頓狂に裏返っていた。
小栗は男の方へと物怖じせず突き進む。
「公園の猫に、こんな時間に!?」
「お、お腹、空かせてるか、と、お、思って」
ダウンの男がおどおどと答える。回答は舌が上手く回っておらず、吃っていた。
小栗がぴりぴりと張り詰めた声で叫ぶ。
「袋の中を見せてください!」
「あ、あ……」
ダウンの男は震えながら立ち上がった。同時に、力の抜けた手からガサッと、ホームセンターの袋が落ちる。スポットライトのように降り注ぐ街灯の光が、その零れた中身を照らした。白く丸いものが詰まったタッパーと、ホウ酸のパッケージである。
男は即座に屈んで、飛び出したタッパーとホウ酸を袋に突っ込んだ。伏せた顔は街灯の灯りが届かず、その表情は陰っている。ただ慌てふためく仕草から、チェシャ猫は諸々を察した。
小栗も同じ考えに行き着いたようだ。彼はこれまでチェシャ猫には見せていなかった鋭い目付きで、男を凄んだ。
「それ、ホウ酸団子ですよね。猫を殺す、毒餌の」
「おいガキ、やめろ」
最悪だ、と、チェシャ猫は口の中で呟いた。
レイシーを捜しにきたというのに、面倒事に巻き込まれた。自身の気配の薄さを利用してさっと立ち去ってしまおうかとも思ったが、それはそれで後々余計に厄介なことになる気がする。
ダウンの男の影が、公園の外に向かって走り出す。それを小栗が、チェシャ猫の制止を振りほどいて追いかける。体の重そうなダウンの男がのすのす走っても、身軽な小栗にすぐに取り押さえられた。
「逃げるってことは見られて困るんですよね!? その新しいホウ酸も、次の毒餌を作る材料だな!?」
「やめろ、来るな! 触るな!」
掴みあってもがく小栗とダウンの男をやや遠巻きに眺め、チェシャ猫は辟易していた。そんな彼に、小栗が叫ぶ。
「チェシャさん、警察を呼んでください! 早く!」
チェシャ猫はまたひとつ、大きなため息を洩らした。小栗という少年は随分と頑固だ。さらに熱くなった彼はもう外部からのコントロールが利かなくなる。
チェシャ猫がうんざり顔で、コートのポケットから携帯を取り出したときだった。
みゃあ、と、やけに掠れた猫の声がした。
チェシャ猫は反射的に手を止め、声のする方を振り向く。そしてハッと息を呑んだ。
チェシャ猫の背後に現れたのは、草の茂みから歩いてくる、異様に大きな猫だった。暗がりの中に浮かぶ巨体の影は、一般的な猫の二倍くらいはあると見える。
街灯の灯りが届き、その全容が顕になる。
灰色の毛皮、顔に白い模様のある、金色の瞳の猫だ。街灯に照らされて歩いてくるその腹には、不自然に濃い影が漏れ出している。
「お前……今来るか」
チェシャ猫は猫に向かってぼやいた。これは間違いなく、件のレイシー猫だ。ただ、小栗の撮った写真の写り込みより、ずっと大きい。あの写真が二ヶ月弱前に撮られたのを鑑みれば、この猫が異様な速度で成長していると分かる。
チェシャ猫はコートの中に手を突っ込んで、ガンホルダーから銃を抜いた。しかし、その手をコートから出すことは憚られた。レイシー猫はこの猫で確定だが、小栗もダウンの男もいる。今ここで、このレイシー猫に銃は向けられない。
小栗とダウンの男は、まだ掴み合っていた。
「毒餌で猫を殺していたんですね? どうしてそんなことを!?」
「くそ……なんだよ、くそ……! 猫くらいでなんだよ!」
男が太い腕をぐるんと振り上げ、小栗を突き飛ばす。小栗はよろめいて、石畳に尻もちをついた。
その彼を見下ろして、男が息巻く。
「俺は、うるさくて汚いバカな生き物を殺してやってるんだ。こっちはクソ親から働け働けとしつこくされて苛ついてるのに、こいつらがうるさいから……」
顔を赤くして怒りを滲ませる男の足元へ、大きな影が吸い寄せられていく。灰色の猫が、彼に向かって歩いていくのだ。
直感的に危険を察知したチェシャ猫は、咄嗟に小栗に駆け寄って、彼の手首を掴んだ。
「離れろ」
小栗は座り込んだまま、チェシャ猫を見上げて威嚇した。
「だってチェシャさん! この男、自白して……」
しかし小栗の言葉は、そこで途切れた。突如、周囲が真っ暗になったのである。驚いた小栗は声を呑み、チェシャ猫もびくっと周囲を見渡した。
公園の街灯が、全て光を失っている。代わりに、植え込みの端に、小さな光の粒がふたつ並んでいるのを見つけた。よく見ればそれはふたつだけではない。その数センチ隣にも、他の植え込みにも、木の上にも、そこらじゅうがぎらぎら光っている。
ダウンの男は、呆然と立ち尽くしていた。
彼の前には、行儀よく座る、妙に大きな猫の影。
「にゃあ」
やけにねっとりとした、耳に絡みつくような声だった。
ダウンの男の影が、がくっと崩れ落ちる。
「ひっ……なんだよ……なんだお前」
周囲の小さな光が、ゆらゆら揺らめいた。じわり、じわりと、近づいてくる。囲まれている、と、チェシャ猫は思った。
男の震える声が、暗闇の中から響く。
「やめろ、やめろ! お、おい、悪かった、俺が悪かった」
固まる小栗の腕を握り、チェシャ猫も凍りついていた。丸い光が少しずつ少しずつ、距離を詰めてくる。
男が裏返った声で叫んだ。
「ひっ……! た、助けてくれ。猫が、猫が……!」
なにが見えているのか、男はガタガタ震えて喚く。
「やめ――」
男の断末魔が、そこで途絶えた。
最後まで声になる前に、男に向かって光の大群が押し寄せてきたのである。
背後から飛び出すそれが、チェシャ猫と小栗の真横を通り過ぎる。小栗の腕を掴むチェシャ猫の手に力が入った。暗くてその姿は見えなかったが、その距離を掠めたらはっきりと分かる。
あれは、手のひらに乗るほどの小さな猫だった。金色に光るふたつの粒は、並んだ丸い目玉だったのだ。
やがて街灯が、バチバチッと火花の弾ける音を立てた。公園の中の灯りが点いたり消えたりを繰り返し、徐々に安定していく。数秒後には、全てに灯りが点いて元の状態に戻った。
ただ、いたはずの男の姿はなかった。男のいた場所には葡萄色のダウンと幅の広いジーパン、ホームセンターの袋が石畳に落ちている。まるで中から人間だけ抜き取ったかのように、人が着ていた形のままで服が寝そべっているのだ。
その手前には、足を揃えて座る猫の灰色の後ろ姿があった。街灯の灯りを浴びているのに、腹の辺りだけがやけに暗く影を落としている。
小栗は呆然として、石化していた。チェシャ猫はじっと灰色の猫の背を睨む。
なにが起こったのかは、よく分からない。ただどうも、このレイシー猫が、あの男を喰った……ように思える。
灰色の猫は、くるりとチェシャ猫に顔を向けた。黄金色のビー玉のような瞳でチェシャ猫を見上げて、ひと声、にゃお、と鳴く。そしてぬっと立ち上がると、のそのそ歩いて茂みの中に潜っていった。
「おい」
チェシャ猫は小栗の手を離し、猫を追った。しかし猫が消えた茂みの中には、もうなにもいない。携帯で辺りを照らすと、植え込みの影にさらさらと、黒い灰が落ちていた。
背後から小栗の声がする。
「あれ……あの人、消えて……」
小栗は抜け殻になったダウンを見つめていた。チェシャ猫は彼から目を逸らし、試験管に灰を掬い入れた。
さて、どうしたものか。ひとまず自分も素知らぬふりをして、一緒に不思議がっておけばいいのか。
小栗はダウンの周りをきょろきょろ見回している。
「あれえ……どこに逃げたんだ? 服だけ残ってるなんて……チェシャさん、あの男、そっちにいますー?」
小栗は男が姿を消したこの異様な事態を、まだ呑み込めないようだ。困惑しながら周辺を見渡して、どこかに隠れているのではと捜している。
チェシャ猫はやや目を伏せて、首を横に振った。
「いない。なにが起こったんだろうな」
「夢でも見てたんですかね、俺たち。一応、警察に連絡しときます?」
「ああ、俺がしておく。あんたはもう帰れ」
「分かりました、お願いします」
小栗がよいしょ、と立ち上がる。
「それじゃ、俺こっちなので。お休みなさい」
街灯の下で、小栗は微笑んだ。
チェシャ猫は試験管をコートのポケットに突っ込み、植え込みを離れた。小さくなっていく小栗の背中を見届け、チェシャ猫も帰路についた。
心臓を掴まれているような、異様な胸のざわめきを感じながら。
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