恋のライバル?
そして迎えたクリスマスイヴ、空からは綿のような雪が降っていた。
午前十時の店内では、珍しくチェシャ猫がカウンター席に座り、シロと向かい合っていた。
「そろそろか」
「そうだね。小栗くんがどんな子か、楽しみだね」
シロが和紅茶をいれ、花札の茶托に載せてチェシャ猫の前に置く。
「そわそわしちゃうなあ。娘が彼氏を連れてくるときのお父さんって、こんな気持ちなのかな」
「そんな気持ちになってるのかよ」
「随分シラケた態度を取るじゃないか。チェシャくんこそ、愛莉ちゃんに言われたとおりに今日ここに来てるくせに」
シロがいたずらっぽくチェシャ猫をからかう。チェシャ猫がなにか言い返そうと口を開くと、それを遮るように、扉の鈴がチリリンと揺れた。
「やっほー! チェシャくん、シロちゃん。小栗くん連れてきたよ!」
元気よく入店してくる愛莉の後ろには、おずおずと遠慮がちに縮こまる少年の姿があった。
「ここが愛莉ちゃんのおすすめのお店、『和心茶房ありす』……」
そして愛莉についてカウンターの前に立つと、彼はチェシャ猫とシロそれぞれに頭を下げた。
「初めまして、小栗海代です」
「ようこそ、小栗くん。愛莉ちゃんから話は聞いてるよー。僕が店主のシロちゃんだよ」
シロが愛想よく微笑み、小栗に挨拶をする。愛莉はチェシャ猫を見つけるなり、勢いよく彼に向かって駆け出した。
「チェシャくーん! 来てくれたんだね!」
「チェシャくん?」
小栗がきょとんとしていると、愛莉はチェシャ猫に抱きつこうとした手を止めて小栗を振り向いた。
「紹介するね。このお兄さんはここの常連さん。顔は怖いけど怖くないから安心して。気配が透明で音も立てなくて、神出鬼没のチェシャ猫みたいだから、『チェシャくん』って呼んでるんだ」
呆れ顔のチェシャ猫など気にもせず、愛莉がマイペースに話す。
小栗はというと、数秒ほどチェシャ猫を見つめていた。そしてにこりと目を細める。
「初めまして。俺も『チェシャさん』って呼んでもいいですか?」
*
「小栗くんがくれた子猫の写真、あれ、撮ったのいつ頃?」
入店から数分後。愛莉は小栗に尋ねた。
愛莉と小栗はチェシャ猫と横並びになって、カウンター席に座っている。愛莉おすすめの抹茶ラテを注文した小栗は、シロがそれを作るのを待っていた。
「写真の日付を見たら、先月の頭だったよ」
「そっかあ。じゃあ、まだきっと小さいね」
愛莉がふふっと頬を緩ませると、小栗は寂しげに目を伏せた。
「それが……その子猫、昨日死んじゃったんだ」
「えっ!?」
愛莉の大声が、店内に響く。チェシャ猫が振り向き、シロもふたり分の抹茶ラテを作りながら小栗に目をやった。小栗は大きくはっきり頷く。
「予備校の帰りにあの公園を通ったら、偶然見つけたんだ。まだあんなに小さいのに……」
小栗の声は、徐々に消えていった。それから空元気じみた明るい声で言う。
「ごめんね、暗い空気になっちゃった。んー、愛莉ちゃんにも子猫見せたかったなあ」
「ううん、あたしの方こそこんな話振っちゃってごめん。つらいこと思い出させちゃった」
愛莉が慌てて謝ると、小栗は苦笑いで続けた。
「びっくりしたしショックだったから、つい立ち尽くしたよ。そしたら茂みから灰色の猫が出てきて、その子猫を咥えてどこかへ逃げちゃったんだけどさ。親猫かな? でも写真に残ってた親猫と違う色だったような……」
「灰色の猫!?」
愛莉がまた、大声を出す。チェシャ猫とシロも、ぴくっと肩を強ばらせた。灰色の猫と聞けば、頭の中で結びつくのは黒い霧を洩らすレイシー猫である。
彼らが意外なところに反応するので、小栗は驚いていた。ぽかんとする彼に、愛莉は取り繕うように付け足す。
「知り合いが捜してる猫が、灰色の猫だったの。もしかしてその子かなって……」
嘘ではない。小栗はそれを聞いて納得した。
「ああ、そういうこと。暗くてよく見えなかったけど、灰色の体に白っぽい模様があったよ。見かけたのは昨日の夜。予備校の帰り、夜の十時から十一時くらい」
それを受けて愛莉は、ひぇっと悲鳴を上げた。
「そんな遅くまで勉強してたの?」
「テストのあと、分からなかったところを自習室で復習してたんだ」
「そういえば小栗くんの成績、学年トップだった。しかも入学してからずっと」
愛莉は今更、絵里香から聞いた情報を思い出した。シロもへえ、と感心して、できあがった抹茶ラテを小栗の前に差し出した。
「君、学力もあるんだねえ。なにからなにまでパーフェクトだなあ」
「はは……そんなに褒めないでくださいよ」
小栗は面映ゆげに首を横に振り、抹茶ラテのその甘くほろ苦い香りを鼻腔に吸い込んだ。ほっと頬を綻ばせて、ひとつまばたきをする。
「猫、見つかるといいですね」
「ありがとう。ああ、それと小栗くん、勉学に励むのは素晴らしいけれど、君も夜道は気をつけてね?」
シロはもう一杯、抹茶ラテを作って今度は愛莉の前に置く。
「猫が死んでたなら、猫を殺してる人がいるのかもしれない。そういう人が彷徨くような公園だよ。なにかあってからじゃ遅いんだから、あまりひとりで歩かないようにね」
レイシー猫がいる公園である以上、小栗の身にも危険が及ぶかもしれない。シロが気遣うと、小栗は抹茶ラテをひと口飲んで微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます、気をつけます。……これおいしい。温まりますね」
「お気に召したのなら、なによりだよ」
ふたりがほっこりと話す隣で、愛莉も抹茶ラテをひと口、口に含んだ。ちらりと左隣に目をやる。そこに座ったチェシャ猫は、ずっと無言だ。
シロはカウンターに両肘を乗せ、小栗の方へ身を乗り出した。
「それはそうと、小栗くんは愛莉ちゃんにアタック中らしいね! 応援してるよ」
彼が話題を変えた途端、小栗は抹茶ラテを噴き出しかけた。
「えっ、は、はい! でも振られたので、あくまで友達としてこうしていさせてもらってます。けど、俺は今でもお付き合いを目指してます!」
「ははは、青春だね。クリスマスだし、このあとふたりでどこか行くの?」
シロが機嫌よく話を進めると、小栗は苦笑いで愛莉を見た。
「もちろん、そうしたいけど……」
抹茶ラテから離れた愛莉の口が、ズバッと切り捨てた。
「あたし、このあとバイト。クリスマスイヴと当日は時給いいの」
「このとおり、俺が愛莉ちゃんに会う約束をする前に、シフトを入れちゃってたようです」
小栗が切なげに笑う。シロは残念そうに笑い返すしかできず、チェシャ猫に至っては眉間に皺を刻んで顔を上げなかった。
愛莉は唇を尖らせて彼らを見回す。
「仕方ないでしょー、シフトの方が先に決まったんだから! それでもシフト前の時間にこうして会えただけでも……あっ、もう時間だ! ごめんね小栗くん、またゆっくり会おうね」
愛莉は嵐のように喋って椅子を立ち、抹茶ラテの代金を置いて、走って店を飛び出していった。
残された三人は、閉まった扉を眺めて数秒沈黙した。やがて、シロがはははと乾いた笑い声を上げた。
「クリスマスに予定が入るとは思ってなかったんだろうね。だとしても、友達とパーティとかやりそうなタイプなのに、バイト優先なんだ。あの子、意外とあっさりしてるよね」
そしてフォローするように、小栗を激励する。
「小栗くんも気の毒だね。折角、勇気出してクリスマスイヴに会う約束したのに」
それを受け、小栗はへらりと苦笑した。
「大丈夫です、なんとなく分かってきたので」
「君は本当に聡明な子だねえ。心優しい子だって言うのは愛莉ちゃんから聞いてたけど、勉強までできるとは」
シロが少し前の会話を思い起こす。小栗は抹茶ラテをひと口含み、小さなため息をついた。
「俺、弁護士になりたいんです。そのために入りたい大学も決まってる。目標がはっきり見えてるので、勉強も頑張れるんです」
「おお、真面目。弁護士ね、うん、正義感の強い小栗くんにぴったりだ」
にこにこ笑って労うシロに、小栗は照れくさそうに肩を竦めた。そして彼は、愛莉がいなくなって空いた椅子を一瞥する。
「チェシャ猫みたいだから、チェシャさん、でしたっけ」
席をひとつ詰め、チェシャ猫の真横に腰を下ろす。
「愛莉ちゃんの好きな人って、あなたでしょ? 彼女、チェシャさんに首ったけじゃないですか」
覗き込んでくる小栗の瞳と視線を合わせ、チェシャ猫はつまらなそうに紅茶を飲んでいた。
「あいつのあれは、そういうマジなやつじゃないだろ。そのうち目を覚ます」
「そうやって愛莉ちゃんを子供扱いであしらうけど、あの子の気持ちが本気だったらどうするんですか?」
小栗はカウンターテーブルの上で腕を組んで、ライバルを見る目付きをチェシャ猫に向けた。
「あなた自身も、愛莉ちゃんから俺が来ると聞いていた。俺に興味があったのでは?」
チェシャ猫はまた、肩を強ばらせた。この小栗という少年は、のほほんとしているようでやけに洞察力が鋭い。チェシャ猫はちらとシロに目をやった。いかにも「面白くなってきたぞ」といった顔で観察している彼を見て、チェシャ猫は舌打ちをした。
「別に、興味があったわけじゃない。たまたまここで茶を飲んでただけだ」
「ふうん、まあどっちでもいいですけど……愛莉ちゃんの好きな人っていうのがチェシャさんなのは、当たりですよね」
「知ったことか」
「だから俺は、あなたと直接話してその魅力の秘密を暴いて、あわよくば盗めるところは盗もうと思うんです」
ぎらついた目で迫る小栗を見て、シロがカウンター越しで笑いだした。
「積極的だねえ! けど残念ながら、チェシャくんは見た目以上にただのつまんない男だよ。外見も性格も頭脳も全部、小栗くんの方が優れてるよ。こいつから盗むものなんてなにもない」
辛辣な言葉を並べるシロを、チェシャ猫はじろっと睨んだが、反論するのも面倒で睨んだだけで終わった。小栗はたじろぐことなく、すぐにシロに切り返す。
「尚更どうして、そういう方に俺が負けるんですか! 絶対なにか秘密がありますよね!」
そしてその真剣な瞳で、チェシャ猫の死んだ目を見つめた。
「俺はあなたを知りたい。お時間さえ許していただければ、じっくりお話しませんか?」
チェシャ猫は小栗の、射抜くような目を見つめ返していた。数秒、目を逸らした方が負けとでも言わんばかりの緊迫した沈黙が流れる。
しかしチェシャ猫は、すんなりとその視線を外した。
「俺も今から用事がある。これで失礼する」
「えー! そんな、折角お会いできたんですから話しましょうよ! 愛莉ちゃんのこと教えて!」
必死にしがみつこうとする小栗をあっさり払い除け、チェシャ猫は椅子を立つ。
「俺について話すことはないし、あいつについては俺も全然分からない」
「そんなあ……」
にべもなく立ち去るチェシャ猫を見送り、小栗はへろへろとカウンターに突っ伏した。
「俺、嫌われてるのかな。そりゃそうか、愛莉ちゃんと愛莉ちゃんの好きな人との間に割り込もうとしてるんだから……」
「んー、そうじゃないと思うよ。チェシャくんの今の言葉は嘘偽りなく本音だろうよ」
シロが苦笑いで小栗の頭頂部を眺めていると、小栗は突如、勢いよく顔を上げた。
「そうだ! シロさんは愛莉ちゃんとチェシャさんの両方を、そこから見てるんですよね! おふたりのことを教えてくださ……」
「ごめんね! 僕もただの喫茶店の店主でしかなくて、お客さんであるふたりのこと、あんまり詳しくないんだ」
小栗が最後まで言い終わるより先に切り返し、彼はカウンターに残されていたふたつの湯のみを引き上げた。
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