なにかが引っかかる

 とある冬の午前九時。街に買い出しに出ていたシロの目に、掲示板に貼られた貼り紙が止まった。「さがしています」の文字の下に、葡萄色のダウンの太った男の写真が載っている。クリスマスイヴの夜から、行方不明になっているという。

 シロはその貼り紙を一瞥だけして、すぐに通り過ぎた。

 自身の店『和心茶房ありす』に辿り着く。店の扉の前には、すでに愛莉が開店を待っていた。


「あっ、シロちゃーん! おはよー!」


「おはよう愛莉ちゃん、早いね。寒い中、開くの待ってたの?」


「だって早くシロちゃんのお茶、飲みたかったんだもん。冬休みって退屈だしさ」


 機嫌のいい早口で話す愛莉を尻目に、シロは店の鍵を開ける。


「退屈って、課題はやったの?」


「それは後回しー。できる気分のときにやるの」


「もう、自堕落なんだから」


 カチャリ。シロの手が扉を押し開けると同時に、チリンとドアベルが鳴った。店内に入っていくシロに続いて、愛莉も入店する。

 シロはカウンターに入ると、買い物袋を下ろしてエプロンをかけた。


「チェシャくんが言ってたんだけど、クリスマスイヴの夜、公園で小栗くんと会ったんだって。愛莉ちゃんも、小栗くんから聞いてるかな?」


「なにそれ! 知らなかった」


「そっか。ふたりでレイシー猫を発見したみたいだよ」


 ダウンコートの男は、いまだ見つかっていない。同時に、公園の猫の死体はぱたりと見られなくなった。

 愛莉がカウンター席の椅子に腰を下ろす。


「なに飲もうかな。温かいバナナ豆乳にしようかな」


「お、いいね。豆乳は体に優しいよ」


 シロが早速準備に取り掛かる。彼を見上げて頬杖をつき、愛莉は問いかけた。


「レイシー猫、駆除できたんだね。やっぱり、公園の猫が死んじゃってたのは、レイシー猫が喰ってたからなの?」


「うーん、まだ研究結果が出てないから、はっきりとは言いきれないけど」


 シロはバナナと温めた豆乳、それとメープルシロップをミキサーにかけた。ぐるぐる回転するそれを眺め、ゆったりとまばたきをする。


「チェシャくんから聞いた話によると、どうも猫を殺していたのは人間だったみたいだよ」


 ミキサーが回転を終えると、シロはそれを湯のみに注いだ。


「ここからは仮説だけど……多分レイシー猫は、殺された猫の怨念から生まれたんだ。そして自分のあとに殺された、別の猫の救われない魂を吸収して、成長する」


 愛莉は静かに聞いていた。


「そして力を蓄えて、自分たちを殺した人間に復讐した……んじゃないかなあ」


 最後に湯のみの中にメープルシロップで円を描き、愛莉へと提供する。ほこほこと甘い香りの湯気を立てるそれを、愛莉は両手で受け取った。


「そっかあ。レイシーって、そういうのもいるんだね」


「これは僕の勝手な解釈に過ぎないよ。だけれど、チェシャくんの報告書を見ると、そうとしか思えないんだよなあ」


 ダウンの男に襲いかかった、無数のぎらついた目。男を消し去ったあと、自ら灰と化した猫。男に復讐するという目的を果たして、成仏したように思えるのだ。

 愛莉はバナナ豆乳をひと口啜った。


「ふうん……チェシャくんもそう思う?」


 突然、愛莉が後ろを向いた。彼女の背後の席には、いつの間にかチェシャ猫が腰掛けている。全く気が付かなかったシロは、ぎょっと目を剥いた。


「うわっ! チェシャくん、いつからそこに。びっくりするから入ってくるときもっと存在感出してよ!」


「俺は普通に入ってきてる。現にこいつは、俺に気づいてる」


 チェシャ猫が愛莉を一瞥する。シロは一層不服そうにむくれた。


「それは愛莉ちゃんがチェシャくんの気配に敏感なだけだよ。全くもう……和紅茶でいい?」


「ああ、頼む」


 やりとりするふたりの真ん中に挟まれて、愛莉は彼らを交互に見比べた。


「チェシャくんもシロちゃんが考えるように、レイシー猫は猫たちの復讐心の塊だと思う?」


「そんなところだろうな。勝手に灰になるやつ、初めて見た」


 チェシャ猫はそう答えてから、ちらりと愛莉に目を向けた。


「それよりあんた、あのガキはなんだ」


「ん? 小栗くん?」


 愛莉が聞き返す。シロは和紅茶を盆に載せて、カウンターを出てきた。


「どうしたのチェシャくん。やっぱり小栗くんが気になってるんじゃないか。ふたりで会ったときに改めて宣戦布告でもされたの?」


 面白おかしく揶揄うシロを、チェシャ猫はぎろっと睨みつけた。


「違う。なんかあいつ、気持ち悪いんだよ」


「なにそれ」


 シロが茶をテーブルに置く。チェシャ猫は頬杖をつき、もごもごと言い澱んだ。


「なんていうか、なんか、だよ。上手く言えないけど、変なやつだ」


 あの夜を思い出すと、チェシャ猫の胸はまたもぞもぞとざわめいた。小栗の言動が、どうも引っかかっている。

 難しそうな顔で俯くチェシャ猫を数秒見つめ、シロはふっと目を細めた。


「そうか。気になることがあるなら話してね。今じゃなくてもいい。考えがまとまったらでもいいし、まとまってなくてもいいから」


 チェシャ猫は無言で、小さく頷く。和紅茶から漂う湯気が、ガラスの窓をほんのり白く染めていた。

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