最初で最後のデート
十二月も中頃に入り、雪の降る日が多くなっていた。
冬休み一日目のこの日も、綿のような雪がふわふわ舞っていた。
メールで呼び出された愛莉は、待ち合わせ場所である学校の近くの噴水公園に訪れた。ベンチにはすでに、待ち合わせの相手が座っている。愛莉が声を出すより先に、彼は愛莉に気づいてぱあっと顔を輝かせた。
「愛莉ちゃん!」
待ち合わせの相手――小栗海代が、さながら主人を見つけた飼い犬のような顔でベンチから立ち上がる。
同じ学校の中にいながら、クラスが違うせいで全く顔を見ていなかった。なんだか無性に久しぶりに会う気がして、愛莉は大きく手を振って駆け寄った。
「小川くん、久しぶり」
「小栗ね」
顔を忘れていた愛莉は、名前もうろ覚えで一発目から間違えてしまった。誤魔化し笑いをして、問いかける。
「待った?」
「ううん、さっき来たとこ」
「嘘つけー。耳も手も真っ赤だよ。寒い中、ずっと待ってたんでしょ」
愛莉に指摘され、小栗は面映ゆそうに俯いた。
「楽しみだったから、つい早く来すぎちゃった……」
愛莉が深月と山根と出会ったあの日、小栗からのメールは映画の誘いだった。初対面の場以降、愛莉と小栗は一度も顔を合わせていなかったので、直接会うのはこれがやっと二度目である。
愛莉の方は顔も忘れていたほどだったが、小栗は今でも愛莉に人懐っこい顔を見せる。
「この映画ずっと観たかったんだ。愛莉ちゃんに一緒に来てもらえてよかった! 映画のあと、俺のおすすめのカフェに行って感想を話そう。ちょうど、映画館からすぐ近くだから」
小栗は「こっち」と合図して、歩き出した。愛莉は彼についていく。ふと、公園の中心にあった噴水を振り向き、あっと声を上げた。
「猫! 黒い猫がいる!」
噴水の傍を歩く、野良猫がいたのだ。愛莉の歓声に反応して、小栗も同じ猫に顔を向ける。
「本当だ。愛莉ちゃん、猫は好き?」
小栗に問われて、愛莉は頭の中に、懐かない黒いチェシャ猫を思い浮かべた。
「うん、大好き」
「かわいいよね。ふわふわしてて」
「小山くんも好きなんだね」
愛莉が微笑みで返すと、小栗もはにかんで笑った。
「小栗ね」
ふたりはそんな会話をしながら、映画館に向かってのんびりと歩いた。
*
それから二時間と、数分。愛莉と小栗は、映画館からすぐ近くのカフェに入っていた。
「大丈夫?」
愛莉に尋ねられ、小栗はハンドタオルで顔を擦って笑った。
「ごめん、我ながらまさかこんなに泣くとは。ヒロインの最期の台詞がさ……あ、また涙出てきた」
すでにびっしょりのタオルで目を押えている小栗を横目に、愛莉は映画のパンフレットを開いた。余命僅かの女性と、彼女が長くないと知っていながら結婚した男性の、よくある感動ラブロマンスである。小栗はこの物語にすっかり感情移入して、ぼろぼろ泣いていた。
「そこまで泣くなんて、小……小山……小川……」
「小栗ね」
「小栗くんって感動屋さんなんだね。素敵なことだと思うよ」
観客を泣かせる演出の映画で、きちんと涙を流せる。小栗はそういう純粋な心の持ち主なのだろうと、愛莉は思った。
愛莉自身も胸に沁みる感覚こそあったが、隣で小栗が号泣していては妙に現実に却ってしまって涙が出なかった。愛莉は店内を見渡して尋ねる。
「ここが小栗くんのおすすめのカフェ?」
「そう。静かで落ち着くんだ」
小栗がタオルから顔を上げ、ふうと息をついた。
小栗が愛莉を案内したカフェは、小さくて古風な店だった。昔ながらの木造の建物で、無口な店主が静かにコーヒーをいれている。
愛莉は店内を見回し、思う。洒落てはいないが、レトロな佇まいは温かみがあって心地よい。どことなく、『和喫茶ありす』に似ている。『和喫茶ありす』は愛莉がいるときはいつも騒がしくなるが、それはさておき、店内を流れる朴訥とした空気が似ているのだ。
「雰囲気のいいお店だね。あたしもこういうの好き。よく行くお店に似てる」
愛莉がメニューを見ながら言うと、小栗はテーブルに肘を乗せ、身を乗り出した。
「次は愛莉ちゃんが、その店に連れて行ってよ」
「そうだね! ぜひ行こう」
「へへっ。次の約束までできちゃった。ラッキー」
腫れた瞼で微笑む彼を、愛莉はちらりと見た。一秒弱見つめて、またメニューに目を落とす。彼の純朴な笑顔を見て、チェシャ猫から言われたことを思い出したのだ。
思わせぶりなのは良くない。
チェシャ猫の言葉で、愛莉はようやく気づいた。小栗は他の友人たちとは違う。彼には、きちんと交際を断らないといけない。その心づもりで今日はこうして会いに来たわけだが、楽天的な愛莉は小栗に会うなりそれを忘れ、素直に楽しんでしまっていた。
いつ切り出そうかと迷っている愛莉に、小栗はにこっと笑いかけた。
「ここね、紅茶がおいしいんだよ」
「そうなんだ。じゃあ紅茶、頼もうかな」
「俺もそうしよ」
ふたりはメニューから紅茶を選んで、店主に注文した。メニューをテーブルの端に置いて、小栗が話題を振る。
「愛莉ちゃん、猫が好きって言ってたけど、飼ってるの?」
「ううん、飼ってはいないよ」
返事をしつつ、愛莉は切り出すタイミングを窺っていた。言わないと、とは思うのだが、切り出そうとすると声にならない。
そうとは知らない小栗は、楽しそうに話している。
「待ち合わせ場所にしたさっきの公園、猫たくさんいるんだよ。以前、子猫が生まれてるの見たよ」
「いいなあ! あたしも見たい」
「撮った写真があるよ。あんまり近づけなかったらちょっと遠いんだけど、かわいいよ」
小栗は携帯を操作して、写真のファイルを捜した。指を画面に滑らせつつ、彼は徐ろに話を繋げる。
「猫はこんなにかわいいのにさ。世の中には酷い人がいるもので、猫を殺す人がいるんだよ」
「そうなの?」
「うん。最近、あの公園で猫がよく死んでるんだ」
小栗の眉間に、小さな皺が刻まれる。
「先週だけでも五、六匹、死骸を見かけた。自然に死んだにしては不自然だから、誰かが殺してるんだと思う。俺、なにもしてやれないのがすごく悔しくて。せめてもの償いのつもりで、猫たちをペット用の火葬場に連れていったよ」
「猫を殺す……?」
愛莉が目をぱちくりさせる。
「なんで? その人、なんの意味があって猫を殺したの?」
小栗は残念そうに項垂れた。
「分からない。猫が嫌いなのか、動物を殺してみたい好奇心なのか、俺には全然理解できない。ただ、そういう残酷な人間は実在するんだよ」
店主がふたり分の紅茶を運んできた。愛莉と小栗の前にそれぞれ置いて、静かに去っていく。小栗は携帯を操作しつつ、ぽつりと呟いた。
「絶対に許せないよな。俺、そういう理不尽なのが大嫌いなんだ」
それから彼は、慌てて顔を上げた。
「あ、ごめん! いきなりこんなネガティブな話をして」
「ううん、いいよ。小栗くんって正義感が強いんだなーって思ってた」
愛莉は首を振り、にっこりと笑顔を浮かべる。
「涙脆くて正義感が強くて、それでいて暑苦しくなくて、ふわふわっとしてる。世界じゅうみんな、小栗くんみたいな人だったら平和だったね」
愛莉がにこにこしているのを見て、小栗は安心した顔で携帯を掲げた。
「子猫の写真、見つかんないな。いつ撮ったんだったかな。もっと前か?」
世界じゅうみんな、彼のようだったら平和だった。
小栗は愛莉にそう思わせる人格の持ち主だ。それでも、彼と交際する気持ちにはならない。愛莉は小栗が嬉しそうに笑う度、言わなくちゃ、と衝動に駆られ、そしてその笑顔のせいで言葉が喉でつっかえていた。
愛莉はひと匙、紅茶に砂糖を入れた。マドラーで溶かして、ひとつ呼吸を置く。
腹を決めて、愛莉は正面の小栗に真っ直ぐな視線を向けた。
「あのね、小栗くん。今こんなこと言うの、タイミング違うかもしれないけど。先延ばしにするのも良くないから、今言うね」
携帯を見ていた小栗が顔を上げる。微笑みを携えたきょとん顔だ。愛莉は胸が痛むのを抑え、ついに言葉にした。
「あたし、好きな人がいるの」
公園で黒い猫を見て、真っ先に頭に浮かべたのは、その人だった。
「小栗くんが今日、こうして呼んでくれたのは嬉しいし、一緒にいて楽しいの。でも、もし小栗くんがあたしを好きでいてくれるなら、あたしはその気持ちにちゃんと応えられないっていうか」
愛莉の話すトーンは、普段と特に変わらない。小栗は片手に携帯を持って、正面の愛莉をじっと見つめていた。
「だからさ、ごめんね。思わせぶりな態度だったかもだけど、君とはお友達でいたい」
小栗は目を見開いて、呆然としていた。固まってしまって動かない。愛莉はより気まずくなって、紅茶をひと口飲んだ。砂糖が足りなくて、まだ少し渋い。
と、愛莉の携帯がブブ、と短く振動した。画面を確かめると、小栗からのチャットの通知だ。「画像を受信しました」のメッセージが来ている。
「子猫の写真、送ったよ」
愛莉の目の前で、小栗が言う。今度は愛莉が驚かされて、言われるままにチャットを確認した。小栗が撮影した、子猫の写真が送られてきている。
小栗は携帯をテーブルに置いて、紅茶を啜った。
「今、俺、振られたんだよね」
「ん、ごめんね」
愛莉が首を竦める。しかし小栗は、ははっと軽やかに笑った。
「そんなに申し訳なさそうな顔しないでよ。俺が愛莉ちゃんを好きになったように、愛莉ちゃんも誰かを好きなんでしょ。じゃあ仕方ないよ」
そして紅茶のカップを、受け皿に置く。
「でも気が変わるかもしれないよね。俺、これからもら愛莉ちゃんを好きでいてもいい?」
「いいよ。あたしが別の人を好きでもよければ」
「またデートに誘うけどいい?」
「いいよ。あ、でも嫌なときは断るかも」
「いいよ」
小栗はまたひと口紅茶を啜って、穏やかに微笑んだ。
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