Act.5
夏の日
「お兄ちゃん。お兄ちゃん起きて」
茹だるような蒸し暑さの、真夏のある日。自分を呼ぶ声で、目を覚ます。
窓から差し込む眩しい陽の光に、朝っぱらから騒がしい蝉の声。シーツは汗で濡れている。目覚めは悪い。
勝手に部屋に入ってきた妹は、彼の肩を揺すった。
「お父さんがショッピングモールに連れてってくれるって」
「なに買うの……」
現実と微睡みの間を彷徨って、目を瞑ったまま問う。妹の晴れやかな声は、覚醒しきっていない頭にガンガン響いた。
「キャンプのグッズ! お父さんがね、キャンプに行こうって言ってるんだよ」
「キャンプ……? なんでまた」
「またいつもの思いつき。お盆休みでお兄ちゃんが帰ってきてるから、浮かれてるんだよ。でも楽しそうだし、いいと思わない? まずは買い出しから」
面倒だな……。
彼の眠たい頭は、その言葉に支配された。眠くてまだ目を開けられない。舌も上手く回らず、彼はむにゃむにゃと締まらない返事をした。
「俺はいいや。留守番する……」
折角の盆休みだ。こうして帰省したのだから、なにも考えずのんびり過ごしたい。朝もずるずる寝坊したい。出かけるのも億劫なのだ。
外から聞こえる蝉の声が、じゃわじゃわとうるさい。それをバックに、妹の声が耳元で聞こえる。
「えーっ。ごはん、モールで食べるよ?」
「いいよ別に。昼飯くらい、自分でなんとかする」
「そっか。お兄ちゃんにも来てほしかったな。でも仕方ないね」
暑くて、頭も体も溶けているみたいに重い。瞼まで溶けだしてくっついてしまったのではないかというくらい、目が開かない。
妹の気配が離れ、部屋の扉が閉まる音がした。軽やかな足音が遠ざかっていく。
「お父さん、お母さん。お兄ちゃん、ついてこないってー」
ああ、なんて眠いのだろう。とうとう目を開けられなかった。
彼はそのまま、睡魔に呑み込まれて二度寝の海へと沈んでいった。
まさかその数時間後、警察からの電話で起こされるとは微塵も思わずに。
*
そこで、ハッと目を覚ます。枕元で光る携帯の振動で、彼は現実に引き戻された。
部屋の空気は凍っているみたいに冷たくて、真っ暗で、蝉の声は聞こえない。だが、シーツは汗で濡れていた。
重たい頭を上げ、ひとつ、まばたきをする。
妹の呼び掛けは、もちろんない。
この夢を見たのは久しぶりだ。寝惚けている夢なんて、起きていたのか寝ていたのか曖昧で、我ながら複雑である。
あのとき、目を開けていたら。
それでなにかが変わったわけではないだろうし、たとえ覚醒していても自分はショッピングモールになどついていかなかっただろうが、それでも。と、彼は思ってしまう。
あのとき、目を開けていたら――妹の顔を見ることができたのに。
そこまで思ってから、口の中で「くだらない」とぼやき、彼は携帯の画面を見た。
ポップアップされていたのは、喫茶店のマスターからのメールである。
『チェシャくん、仕事だよ!』
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