友達でいて
それから数分後、愛莉は抹茶ココアを飲みつつあっと声を上げた。彼女のスマホに、メッセージが複数件溜まっている。
「お母さんからだ。早く帰ってこいって。もう八時過ぎか。つい時間を忘れてたよ」
愛莉の言葉で、シロがハッと壁掛け時計を見上げた。
「本当だ、気づかなかった。こんな時間まで帰ってこなかったら、ご家族が心配するよね。チェシャくん、愛莉ちゃんを送ってあげて。ここのところ物騒だから」
突如自分に役を振られ、チェシャ猫は眉を寄せた。
「俺かよ」
「他にいないでしょ」
「しゃあねえな」
重々しく腰を上げ、チェシャ猫は上着を羽織った。愛莉もコートを着て、シロに手を振る。
「ごちそうさま! また来るね!」
「気をつけてね」
シロに送り出され、愛莉はチェシャ猫に連れられて帰路についた。頭上を見上げれば、真っ黒な空に星がちかちか浮かんでいる。
チェシャ猫の口元から漂う白い息を一瞥し、愛莉はまた、スマホに目をやった。暗闇の中で、画面が煌々と光を放つ。
「お母さんと……お姉ちゃんからもメッセージ来てる。見てなくて気づかなかったなあ。返信しとかないと」
「ふうん。あんた、姉がいんのか」
チェシャ猫が興味なさげに呟く。愛莉は「すぐ帰るよ」とだけ打って、返信ボタンを押した。
「うん。仲良しだからなんでも話せるの」
愛莉があっけらかんとして言う。チェシャ猫は、街の灯りにまばたきをした。
「仲がいいからって、レイシーのこと喋ってねえだろうな」
「言うわけないじゃん! 大好きなチェシャくんの不利益になること、あたしがするはずないでしょ。シロちゃんからもだめって言われてる」
愛莉は大声で返し、そしてむっと気色ばんだ。
「もしかして疑ってる? 最近狩人が死んじゃう事件が続いてるって言ってたよね。あたしが情報洩らしたと思ってるの?」
「いや、そうは言わないけど……」
チェシャ猫は喉の奥で唸り、数秒、下を向いた。じっと睨んでくる愛莉から目を背け、なかなか続きを言わない。やがて愛莉の視線に根負けし、決まり悪そうに呟いた。
「変なことに巻き込まれてると知ったら、親御さん、不安になるんじゃねえかと思って」
チェシャ猫の消えそうな語尾が、白い吐息と共に町のざわめきに消える。愛莉は思わず足を止めた。目を丸く見開いて、立ち尽くす。驚きのあまり、しばらく絶句して動けなくなった。
チェシャ猫は彼女をじろっと睨み、一旦立ち止まって待つも、すぐにそっぽを向いて先に進んだ。置いていかれた愛莉だったが、石化が解けてすぐ、走ってチェシャ猫の隣に追いつく。
「すっごくまともな心配してる!? 常識人!?」
「失礼なクソガキだな。俺は初めから常識人だっただろうが」
吐き捨てるチェシャ猫の腕に、愛莉は両手でしがみついた。
「たしかに家族は、あたしが誰とどこでなにしてるのか、分からなかったら不安だよね。話したところでこんな状況じゃ、余計心配するだろうし」
「でも話すなよ。絶対に話すな」
チェシャ猫が念を押すと、愛莉はくすくすと笑った。
「分かってる。秘密にするよ」
なんとなくからかわれている気になって、チェシャ猫はいつも以上の不機嫌面で愛莉から顔を背けた。
「まあ、気に入ってる喫茶店に出入りしてる、とだけは伝えておいてもいいかもな」
「はーい」
「あんたがレイシーの案件に巻き込まれると、それ以上のことまで話さなくちゃならなくなる。だから現場には来るな」
チェシャ猫は無愛想に言って、愛莉と目を合わせない。愛莉の方は、にやにやと口角を上げてチェシャ猫の顔を覗き込んでいた。
「素直じゃない言い方してるけど、あたしの身に危険が及ばないように安全なところにいるように言ってくれてるんだよねー」
「都合のいい解釈だな」
「チェシャくんの言葉って、そのまんまの意味じゃないとき結構あるよね。あたしもぼちぼちチェシャ猫語のリスニングができるようになってきて……」
と、ブブ、とバイブ音がして、愛莉のスマホが光った。愛莉は画面を確認し、すぐにコートのポケットに片付ける。
「家族からの返事かと思ったのに、違った。小栗くんだ。歩きながら打つと危ないから、帰ってからゆっくり返事すればいいか」
「誰だよ」
「この前話した、あたしと仲良くしたいっていう男の子。あ、気になる? 嫉妬してくれる?」
「いや、どうでもいい」
愛莉が背伸びしてチェシャ猫に顔を近づけるも、チェシャ猫は仰け反るでも目線を向けるでもなく冷ややかな声だけであしらった。愛莉はため息をつく。
「だろうと思った。そういうところが好きなんだけど」
「要らん。なんで俺に懐くんだよ。小栗、とかいう奴の方が、俺よりよっぽどあんたに好意的だろ」
チェシャ猫が気だるそうに身のこもらない返事をすると、愛莉はうーんと唸った。
「ね。いい人だと思うし、チェシャくんみたいにひねくれてないし、あの人が恋人だったら、きっと毎日がきらきらするんだろうけど……」
愛莉はポケットの中で光るスマホに目をやり、手に取ることなく話し続けた。
「でもあたし、やっぱりチェシャくんの方が好き」
「変なの」
チェシャ猫は冷たく言って、それから少し間を置いて、再び口を開けた。
「どうでもいいけど、それ、その小栗とかいうやつにはちゃんと言ったのか?」
「ん? 『それ』というのは……」
時間をかけて考えて、愛莉はハッと理解した。
「ああ、チェシャくんの方がかっこいいって話?」
「そういう表現だと語弊があるが……。見込みがないと知らずに求愛してるとしたら、小栗が不憫じゃねえか」
チェシャ猫がため息混じりに付け足す。
「むろん、あんたが小栗と勝手にくっついてくれれば、あんたが俺にまとわりつかなくなるんだから、俺としては小栗を応援したい。でもあんたは全くその気がないんだろ? 思わせぶりなのは良くない」
「本当だ。そこまで気が回らなかったよ」
今更動揺しはじめた愛莉を横目に、チェシャ猫は眉を顰めた。
「あんた、ときどきサイコパスみたいだよな。他人への共感力が極端に足りない」
「違うよ! ただあたし、恋愛なんてちゃんとした経験ないから……。だから小栗くんの気持ち、よく分かってなくて」
愛莉はもたもたと歯切れの悪い返事をして、下を向いた。
「次に話すとき、ちゃんと言う。友達でいて、って」
冷たい夜空に星がまたたいている。数メートル先に見えてきた愛莉の自宅は、温かな灯りを窓から漂わせていた。
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