知りえながらに流される
「そういえば、山根さんが置いていった封筒、なんだろう」
『和心茶房ありす』のカウンターで、シロがふいに言った。山根が店を出ていく前に、シロに手渡していった封筒のことである。シロは徐ろに封を開け、中から数枚の用紙を引っ張り出した。
「これは……
「老婆死体遺棄?」
チェシャ猫が繰り返すと、シロは紙に目を落としたまま話した。
「うん。今ではすっかり世間から忘れ去られているけど、そんな事件があったんだよ。山に老婆の遺体が埋められていたというもので、犯人は未だに捕まってないんだ」
それを受けて、深月がパフェのスプーンを片手に言う。
「かなり古い事件だろ。その当時はまだ、チェシャ猫も子猫じゃねえの」
「子猫ってことはないよ。高校生くらいかな」
シロはしばしその紙を見つめ、続いて同封されていた別の用紙と並べ替えた。ひととおり眺めて、封筒の中に戻す。
「そういうことねー」
「なんだったんだ?」
チェシャ猫が聞くと、シロは封筒を手にカウンターを出た。チェシャ猫のいるテーブルまで来て、和紅茶の横に封筒を置く。
「どうぞ」
シロはにこりと微笑んで、カウンターの中へと戻っていった。
封筒を渡されたチェシャ猫は、シロを見送りつつその中身を引き出した。いちばん上に重なっていたのは、新聞記事のコピーである。「遺体発見、月綴ヶ丘」と、大きな見出しが真っ先に目に飛び込む。
都心から電車で一時間程度の山。身寄りのない老婆がひとり、ひとけのない林の中に埋められていたという。老婆は刃物で胸を刺されており、発見当初、遺体はまだ新しかった。死後二十四時間経っていなかったと見られている。犯人は未だ、捕まっていない。
記事に目を通したチェシャ猫は、ふうんと鼻を鳴らした。
カウンターのシロと彼に向かい合う深月が、のんびり話している。
「そういや、お前らはここんとこ急に飛び降り自殺したくなったりしてねえか?」
「ん? ああ、例の狩人狩りの話か」
シロが苦笑いを浮かべる。
「してないよ。少なくとも僕は。チェシャくんも日頃と変わらない」
「自殺を促すレイシー自体は珍しくないが、作為的に狩人を狙ってるってのが特殊なんだよなあ」
「狩人が狩人だって、バレてるってことだよね?」
「被害者らは『狩人である』以外の共通点は、今のところ見当たらねえもんな。偶然じゃないだろう」
ふたりのやりとりを小耳に挟みつつ、チェシャ猫は封筒の中の記事を斜め読みしていた。
記事を読み終え、いちばん後ろに重ねる。繰り上がって前に出てきた二枚目の用紙は、とあるレイシーの駆除依頼書だった。
チェシャ猫とシロが日頃からよく目にしているのとほぼ同じ、役所からのメールに添付されている依頼書である。以来の日付は、八年前の冬だ。
その次に重なっていた一枚は、依頼達成ののちに狩人から提出される報告書である。だがこちらは少し書式が違う。別の地区の役所から発行されているものだ。
レイシーはトレンチコートの男の姿をしており、電車に乗って移動していたとある。移動範囲は首都圏内がメインで、チェシャ猫とシロの管轄も含まれていた。
トレンチコートのレイシーは、この報告をした者によってきっちりと排除されている。
シロと深月は、引き続き「狩人狩り」の話題を続けている。
「チェシャくんの様子が変だったら、すぐ報告するよ」
「シロちゃん自身もな。お前だって可能性あるんだからな」
「深月くんもね。狩人じゃないけど、レイシーにとって敵であることは変わりないんだから」
チェシャ猫は管轄の違う依頼書と報告書を眺めていた。依頼を受け付けた狩人と、実際に駆除した狩人が別の人間である。
依頼書の受付者は、トレンチコートのレイシーを追いかけて、同じ電車に乗って移動した。移動先は別の役所の管轄で、現地の狩人が受付者に代わって駆除したようだ。
改めて、報告書に目をやる。駆除された現場は、「月綴ヶ丘区役所」の管轄内の山道のようだ。
地名を見て、チェシャ猫は最初に見た新聞記事のコピーを見返した。老婆の死体が遺棄されていた現場と、近い。
よく見たら、このトレンチコートのレイシーの依頼書と報告書に書かれた日付は、老婆の記事と同じ年だ。同じ、八年前の冬――。
それに気づいて、チェシャ猫ははたと肩を強ばらた。
「これ……」
依頼書の中に、依頼の請負人の名前を見つけた。
八年前の冬、この仕事を受けた狩人の名前は。
「んじゃー、俺、そろそろ行くわ」
深月が席を立つ。シロはカウンターに肘を乗せて、にこにこと手を振った。
「愛莉ちゃんの件、よろしくね!」
「なるべく穏便に済ますが、上の機嫌次第じゃ呼び出しと説教、最悪の場合、始末書提出まであるかもしんねえから。それは覚悟しとけよ」
深月は最後に厳しい顔をしてそう言い残し、店をあとにした。鈴が鳴って扉が完全に閉まると、シロはくたっとカウンターに突っ伏した。
「はあ、怒られるのやだなー。まあ、あれだけさくらんぼをサービスしたから、深月くんも全力で庇ってくれるとは思うけど……」
「なあ、シロさん。これ」
シロが崩れているのは触れず、チェシャ猫は手に持っていた依頼書を掲げた。シロはちらと目を上げ、投げやりに「ああ」と呻いた。
「そうそう。それ、うちの叔父さんが失踪する直前、最後に向かった仕事。それに行ったきり、帰ってきてない」
依頼書の中にある、請負人の名前。
役所から指示を受けたその狩人の名は、シロが八年捜している男の名だった。
シロはいつもどおりの、柔らかな口調で言った。
「八年も調べてるから、叔父さんがその日に月綴ヶ丘の方向へ行ったのとか、そこの狩人が代わりに仕事をクリアしてるのは僕も知ってたけど……老婆の事件と位置が近いのは気づかなかったな。山根さんは目の付け所が違うなあ」
「叔父さん、この老婆の件に巻き込まれたかもしれないのか」
「関係あるかもしれないね。どう関係あるかは、分からないけど」
シロがパフェグラスを片付ける。
「現時点じゃ、位置が近いというだけで結び付きが弱い。とはいえ山根さんたちには『どんな小さな情報でも欲しい』って伝えてあるから、こういう些細な気づきも教えてくれるんだ」
カチャ、と、グラスが涼し気な音を立てた。
「関連があるとしたら、なんだろう。どう絡んでくるのかなあ」
「さあな」
チェシャ猫が煩わしげに返した数秒後、チリンと、扉の鈴が鳴った。チェシャ猫とシロがほぼ同時に顔を扉に向ける。
「ただいまシロちゃん!」
元気よく入ってきたのは、白い吐息を纏った愛莉だった。
「お帰り。寒かったでしょ。山根さんとは仲良くなれた?」
「うん。どこまで起きててどこまで寝てたのかよく分かんないけど、たくさんお喋りできたよ」
「そっか、良かったね。なにか温かいものでも飲む?」
「うん、抹茶ミルクココアがいい!」
愛莉は椅子に飛び乗る勢いでカウンターの一席に座り、向こう側のシロをじっと見つめた。
「このお店の抹茶が美味しいのは、シロちゃんの師匠のおかげなんだね」
愛莉がぽつりと言うと、シロは抹茶の準備をしつつ、目線だけ彼女に投げた。
「山根さんから余計な話でも聞いたのかな? まあ、隠してるわけでもないから、いいんだけどさ。あっ、そうだ。叔父さんの形見、見るかい?」
目が合った愛莉ににっこり微笑み、シロはカップに茶を注いだ。愛莉はぴょんと椅子を立つ。
「見てもいい?」
「もちろん」
シロは注いだ茶を愛莉の前に差し出すと、自身の髪をそっと手で払った。髪の隙間から覗く左耳に、金色のピアスが嵌っている。愛莉がそれに顔を近づけると、シロも少し屈んで愛莉の視線に合わせた。
ピアスはほんの数ミリの小さな粒だったが、よくよく目を凝らすと、丁寧に掘られた時計の造形をしていた。
「わあ、かわいい」
「でしょ。これね、彼が昔好きだったブランドの限定品でさ。すごく大事にしてたんだよ。今は片方しかないんだけどね」
シロはいたずらっぽく笑い、持ち上げていた髪をさらりと下ろした。
「僕はあの人のような狩人にはなれなかった。だからせめて、あの人が大事にしていたこのお店だけは大事にしたい」
ほんわりと、抹茶の香りが漂う。愛莉はしばらく黙って、深く甘く、苦い香りを味わっていた。
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