微睡みのネズミ
真冬の薄暗い夕暮れ空の下、山根は後ろを振り向いた。
「あら。お嬢さん、ついてきたの?」
自分に続いて店を出てきた愛莉が、白い息を吐いてついてくる。
山根が愛莉に気づいたのは、人けのない噴水公園の石畳の道だった。『和心茶房ありす』からポイソンコーポレーション本社までの近道である。
ようやく自分に気づいた山根に、愛莉は駆け寄った。
「あたし、ずっと呼んでたんだけど。今気づいたの?」
「ごめんね。ちょっと意識が朦朧としてたかも。聞こえてなかったわ」
山根が立ち止まって愛莉を待つ。愛莉は山根の横に追いつくと、改めて相手の顔を見上げた。髪は乱れているし顔は窶れているが、柔らかに細めた目と少し上がった口角からは、彼女の穏やかな人柄が伝わってくる。
「山根さん、ポイソンに勤めてるんでしょ。頭良さそうだから、課題教えてほしいなーって、お願いしたくて」
「そうだったの。でもごめんね、私、今からまだお仕事残ってて……」
返事の途中で、山根の瞼がすーっと落ちてきた。真正面に倒れかける彼女を、愛莉は慌てて支えた。
「眠そう! 大丈夫?」
愛莉の肩に、山根の頭がすっぽり落ちてくる。山根はよろりと顔を上げ、愛莉の肩を柱にして体勢を立て直した。
「ごめんなさい、よろけちゃった。大丈夫よ。まだ四徹目だから」
「思った以上にハードにお仕事してた」
驚く愛莉から手を離し、山根はゆっくり歩き出した。
「お仕事が落ち着いたら、課題、一緒にやろ……ね……」
そしてまた、膝からがくんと崩れ落ちて石畳に倒れる。愛莉は寝落ちした山根に飛びついて、背中を揺すって叫んだ。
「山根さーん! もうお仕事しない方がいいよ! あたしと一緒にサボっちゃおうよ!」
*
『和心茶房ありす』に戻ろうとも考えたが、眠そうどころかすでに寝ている山根には、その数百メートルを歩くのすら難しい。愛莉は山根を引きずって、噴水の手前にあったベンチに彼女を座らせた。
「お仕事忙しいのは分かるけど、休憩した方がいいよ。あんまり働きすぎちゃうと、倒れちゃうよ」
山根の隣に座って、愛莉はのんびり語りかけた。山根は目を閉じて、こくりこくりと船を漕いでいる。
ふと、愛莉は以前、シロから聞いた話を思い出した。
『大半のレイシーはね、喰うのは肉体じゃなくて魂なんだ。人に近づいて心や体を蝕んだり、事故を起こしたりして、死なせて食べる』
先日のラブホテル前に出たレイシーは、数名の男に近づいており、それに喰われた人々は身も心も病んでいた。
となると、山根もなんらかのレイシーのせいで心を病み、仕事から逃げられない強迫観念に襲われているとか。或いは強烈な睡魔に襲われてしまうのだとか。そんな想像をした。
「山根さん、レイシーに喰われてる……?」
つい考えが口をつく。と、突然、山根が目を開けた。
「それはないわ。私が眠いのには理屈がある。レイシーによる疾病であれば、ロジックが成立しないのよー」
「わあっ、起きた」
驚いて仰け反る愛莉に、山根はやけに饒舌に語り出す。
「私が眠いのは夜中まで起きているからだし、働くのは給料を増やしたいから。給料を増やすために働いてたら社内評価が上がって、こうして班のリーダーを任されるまでになり、さらに仕事が増えて給料も増えたの。『レイシーのせい』といえる隙のない、普通の循環よー」
「そういうものなの?」
「ええ。レイシーが原因だったら、訳もなく仕事に追われて、訳もなくお金に執着する感じ。筋が通らない場合は、レイシーが関係してるケースが多いわねー」
山根はそう話すと、うふっと相好を崩した。
「詳しいでしょー。伊達にレイシーの研究してないわよー」
「流石だね。レイシーじゃないならひとまず安心だけど、それならいいってものでもないよ。夜遅くまでお仕事してるんでしょ? 無理しちゃだめだよ」
「ううん、徹夜の理由は仕事じゃなくてゲーム。お金が欲しいのは推しに貢ぐため」
そう言って頬に手を当てた山根は、無邪気な少女のように目をきらきらさせていた。愛莉はしばし呆然としたが、すぐに力の抜けた笑みが零れた。
「なんだあ、思ったよりずっと幸せそう。良かった」
山根は眠たそうにふにゃりと微笑み、問いかけた。
「そういえばお嬢さん、あなたはどちら様?」
「まだちゃんと名乗ってなかったね。あたしは愛莉。最近、チェシャくんとシロちゃんと一緒にいるの」
「そう。だからさっき、レイシーのことも知ってるのね」
山根はまったりと目を瞑った。冷たい風が吹いて、夢子の髪を微かに揺らす。
愛莉は山根の横顔を見つめ、呟いた。
「今まであたしが何者なのか認識せずに、あたしと話してくれてたんだね。すんごくマイペースな人だなあ」
「そうね……よく言われるわ」
返事をして、山根はがくっと下を向いた。いよいよ眠ってしまったようだ。愛莉は自分のコートを山根の布団にしようとして、袖から腕を抜こうとした。
だが脱ぐ前に、山根が声をかけてきた。
「私とシロちゃんはね。あの人がチェシャ猫くんを拾うより、ずーっと前からの付き合いなのよー」
「へえ!」
愛莉はコートを脱ぐより、山根の話に興味を惹き付けられて脱ぐのを途中でやめた。
「いつから友達なの?」
「シロちゃんが小学校二年生で、私が中学一年生の頃から」
「子供の頃から!?」
愛莉の関心が、より山根に吸い寄せられる。
「シロちゃんってどんな子だったの? ちっちゃい頃から今みたいにほわわんとしてた? それとも意外にやんちゃだったりして」
わくわくしながら詰め寄ると、山根は眠っているのか起きているのか分からない顔で、微睡むように話した。
「あんまり覚えてない……。歳、離れてたから……遊んだりもしないし」
うつらうつらと、回らない舌で寝言のように言う。
「でもね……面倒見るように、って、親から言われてたから、注意は向けてたわ……。私と彼は、立場が近いから……ほっとけなくて……」
「立場が近い?」
愛莉が問いかける。山根はまた、くらっと重たそうに頭を下に向けた。
「レイシーの存在を、知り得る側の人間……って意味。ほら、レイシーを駆除する人間は、レイシーに存在を悟られると狙われてしまうから、秘密裏にしなくちゃいけないでしょ。絶対にレイシーではない、間違いなく信頼できる相手にしか、共有できない」
「うん」
「そうなると、レイシー関係の仕事は、必然的に身内が跡を継ぐの。そんな感じで、私も親がレイシー研究をしていて……私が引き継いでる」
眠りながら話す山根の横で、愛莉は山根の閉じた目を眺めて聞いていた。
「シロちゃんの場合は、ちょっと特殊なケースで……。ご両親はレイシーとは離れていて、シロちゃんも七歳までレイシーなんて知らずにいた側……。だけど、狩人だった叔父さんのところへ引き取られて、そこで初めてレイシーを知ったのよー……」
「へえ、シロちゃんは叔父さんが狩人なんだね。それが家族の中で引き継がれてくから、シロちゃんもレイシー駆除を……」
言いかけて、愛莉ははたと思い留まった。
シロはレイシーに詳しくはあるが、実戦を行っているのはチェシャ猫であり、シロは直接レイシーを駆除してはいないのだ。
「シロちゃんは狩人じゃないよね?」
「ううん。狩人よ。書面上はね」
「でもシロちゃん自身は、自分で『ただの喫茶店のマスター』って言ってた」
「そうね。叔父さんの仕事を権利だけ引き継いでるだけで、ずっとサボってたからね」
山根が目を閉じたまま語る。愛莉は、彼女の長い睫毛を覗き込んだ。
「どうしてやってなかったの?」
「向いてないから」
「む、向いてない。そうなんだ」
シンプル且つ納得のいく理由に、愛莉は妙に深く頷いた。
「向いてなければ、無理に引き継がない方がいいもんね。失敗は許されないんだものね」
「そうねー……。だからってシロちゃん、自分より向いてる子をわざわざ拾って、狩人に育てたんだから、律儀よねー……」
山根のそれを聞いて、愛莉はすぐにチェシャ猫のことだと分かった。シロは自分が実戦にこそ出ないが、自分の代わりにチェシャ猫を狩人にして引き継いだのである。
「てことは、チェシャくんは狩人の家系じゃないのか。シロちゃんは無関係のチェシャくんを巻き込んだ形ってこと? どうしてそうまでして引き継いだんだろう」
身内以外に説明する自体リスキーだというのに、シロはそれを承知でチェシャ猫を引き込んだのだ。
愛莉が素朴な疑問を口にすると、山根はぱち、と目を開けた。
「ん。シロちゃん本人から聞いてない? ……聞いてないかー。言わないわよね、あの人。チェシャくんも喋らなそうだしー……」
山根は自問自答して、目を伏せた。
「シロちゃんはね、叔父さんを捜してるのよー……」
「捜して……?」
思わず、愛莉は繰り返す。山根はまた、目を閉じてしまった。
「うん。レイシー駆除に向かったまま、帰ってきてない、叔父さん……」
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