三月ウサギと眠りネズミ

 愛莉は目をぱちくりさせて、店内に現れたその客を見上げていた。

 スーツの男が運んできた女が、のんびり目を覚ました。


「ん……? あら、シロちゃんがいる」


 重たそうに瞼を上げて、シロを見上げている。シロは少し背中を丸め、彼女の視線の高さを合わせて微笑みかけた。


「おはよう、山根さん。ここがどこだか分かるかな?」


「んーと、シロちゃんがいるから、『茶匠・不可思議屋』……」


「惜しい。それは改装前の名前だね。今は『和心茶房ありす』だよ」


「うふふ、そうだったかもー」


 間延びした声で話すのは、長い黒髪をひとつに縛った、窶れた顔の女性である。濃い隈のできた目元からは疲れを感じさせられるが、髪や肌はやけに艶っぽい。そのせいか、二十代にも四十代にも見えて年齢が分からない。

 それに対し、彼女を運んできたスーツの男の方はカラッとした爽やかな男だった。


「夢ちゃん、うちにサンプル持ってきてそのまま仮眠室で寝ちゃったみたいでさ。シロちゃん宛の封筒持ってたから、外回りのついでに運んできた」


 やや早口の、力の抜けた軽やかな話し方をする。清潔感のある白いワイシャツに、くっきりとした青いネクタイを締めて、その上には、吊り下げ名札がぶら下げられていた。脇に抱えた疲労顔の女とは正反対の、晴れやかな雰囲気の男だ。

 女を抱えていた彼だったが、突如、ケーキを食べていた愛莉に顔を向け、目を大きく見開いた。


「お! かわいいね、君。高校生? 」


「えっ? うん」


 愛莉がきょとんとしてフォークを止める。男は支えていた女からあっさり放り出し、愛莉の頭にぽんと手を置いた。


「そっか、こんなおかしな店にいたら危ないよ。俺と一緒に別の喫茶店に行こう」


「えっ、え……うん?」


 戸惑う愛莉の肩を押し、男は愛莉を立たせようとする。軟派な態度に困惑し、愛莉が目配せでチェシャ猫に助けを求めるも、チェシャ猫はわざとらしく目を合わせない。愛莉の視線が今度はシロに移る。見かねたシロは、盆をぬいぐるみのよう抱いた姿勢で助け舟を出した。


「こらこら深月みづきくん。愛莉ちゃんを困らせるなら帰ってもらうよ」


 シロに咎められ、男はつまらなそうに愛莉から手を離す。


「冗談だよ、半分」


 尚、女の方は床に崩れ落ち、その場でまた眠ってしまった。シロがため息混じりに、女の傍にしゃがむ。


「山根さーん、床で寝ないで。ほら、座って。飲み物用意するよ。深月くんもなにか飲む?」


 のんびりと問われ、深月と呼ばれた男はシロを振り向いた。


「じゃ、あったかいミルク和紅茶を」


「はいよ。うちのホットミルクティーははちみつ入りだよー」


「いいね。じゃ、それをふたつ」


 自分の分と、もうひとつは一緒に入ってきた女の分と思いきや、彼はまたさっと愛莉の背中に手を回した。


「俺からご馳走させて、お嬢さん」


「こら! 深月くん、やめなさい。愛莉ちゃんが困ってるでしょ」


 シロは女の腕を引き上げつつ、スーツの男を一喝した。

 うたた寝女と軟派男という強烈な組み合わせの訪問者たちに、愛莉は言葉を失っていた。

 しかしどうも初対面なのは愛莉だけで、この客らはチェシャ猫とシロの顔見知りのようだった。


「この人たちは?」


 愛莉が尋ねると、女の腕を背負って立ち上がったシロが、疲れた笑顔で答えた。


「愛莉ちゃんは初めましてだったね。ふたりとも、うちの店の常連さん。といっても、チェシャくんと愛莉ちゃんほどの頻度ではないけどね」


 彼は自身が抱えている、眠りこける女を横目に見た。


「こちらは山根夢子さん。製薬会社にお勤めの研究員さん。ポイソンコーポレーションって会社、聞いたことあるよね」


「ポイソン!? 知ってる知ってる、超大企業だよね!」


 テレビCMで度々目にする有名企業の名に、愛莉の声はつい大きくなる。


「そんなおっきな会社に勤めてるの? かっこいい!」


 そしてたちまち顔を輝かせた。


「ポイソンほどの大企業に勤めてる人ってことは、もしかしてすっごく高学歴!? そうだ、あたしの課題手伝ってもらおうかな!」


 すると、愛莉に詰め寄っていたスーツの男が、胸の吊り下げ名札を摘んで愛莉の前に垂らした。


「俺が手取り足取り、教えてあげようか?」


 そこに入っていた名札には、ゴシック体で区役所の名と「地域安全課・深月平哉」の文字が刻まれていた。


「へえー、こっちは区役所の人だったんだ! 公務員なのね。真面目なチャラ男だ」


 愛莉はもう一度吊り下げ名札を読み、そして目を剥く。


「あっ、しかも『地域安全課』。レイシーの駆除依頼を投げてくるとこだ」


 その単語が出た途端、深月と名乗った男はぴたっと凍りついた。山根を運んでいたシロも固まり、黙っていたチェシャ猫は無言のまま目を逸らした。

 深月がシロを振り向く。


「シーロちゃん。今この子、レイシーって言った? 何者かな、この子は」


「ははは、いつかはバレると思った」


 シロは楽しそうに笑って、山根をカウンター席の椅子に座らせると、深々と頭を下げた。


「申告を怠っていてすみません。民間にレイシー駆除を目撃されました。現状秘密は維持されています」


 真面目な声色になったシロの白状を受け、深月の声もやや低くなる。


「お前な。狩人の存在の流出がどれだけ危険か、分かってるよな? 民間に見られないことはまず大前提だし、見られたノロマは即日に地域安全課うちに報告、目撃者を引き渡せとあれほど言ってんのに」


 ふつふつと煮詰めるような怒りの声で、シロを追い詰める。

 口を滑らせた愛莉は、首を竦めて彼らの様子を観察していた。シロは下を向いたまま顔を上げず、チェシャ猫はそっぽを向いて知らんぷりしている。テーブルの上の将棋盤で駒を指でずらしたりして、関わらないようにしている。


 深月は先程までの晴れやかな顔を封印し、低い声で凄んだ。


「さくらんぼパフェ」


 低音で発されたその単語に、愛莉は耳を疑った。

 今にも怒鳴り出しそうな雰囲気で、怒りを滲ませた声だったが、繰り出された言葉は間違いなく「さくらんぼパフェ」だった。

 彼の説教は、元の軽やかな声色に戻った。


「かわいい愛莉ちゃんに免じて、さくらんぼパフェで手を打ってやる。シロちゃんは俺に今、申告した、事情の説明はこれから受ける。ってことにしてやる」


 それを聞いて、シロがちらりと目を上げる。


「深月くん、それは贈収賄では……」


「いや、違うね。これは個人的に届け物をしに店を訪問した俺に、友人で喫茶店経営者であるシロちゃんが、さくらんぼパフェを味見させてくれたというだけだ。その際、俺はシロちゃんから愛莉ちゃんについての報告を受け、申告書類を用意して郵送する運びとなった」


 調子よくストーリーを築き上げ、深月は肩を竦めて言った。


「最初に気づいたのが俺で良かったよ。これ、俺じゃなくて課長とかだったらどんな処分になってたか」


「うちの担当が君で良かった。好きなだけさくらんぼパフェをご馳走しよう」


 シロはほっと、安堵で胸を撫で下ろした。愛莉も安心で肩の力が抜けた。見れば、チェシャ猫も同時に小さめのため息をついている。

 深月はまた、厳しめの声に戻った。


「なんで今まで黙ってたのか、そういう経緯も含めて正直に説明してくれよ。俺も仕事なんだから」


「はーい、ごめんなさい」


 シロは苦笑して、カウンターに入った。そして早速パフェ作りに取り掛かる。

 カウンター席では、山根が顔を伏せて眠っている。しばらく黙っていた愛莉は、シロと深月のやりとりが解決したのを確認すると、ふたりに尋ねた。


「えっと、深月さんはやっぱり、チェシャくんとシロちゃんにレイシー駆除のお仕事をくれてる人なの?」


「分かってるなら隠す必要もないな。そうだよ、そのとおり」


 深月はそう言うと、先程までシロがかけていた椅子に腰を下ろした。


「といっても、日がな一日レイシーに関する仕事ばかりじゃないよ。課の名前のとおり、地域の安全のために防犯や防災の関係のお仕事もしてる。レイシーに関する仕事は、そのおまけ程度だよ」


 深月の視線が、チェシャ猫に向く。


「うちの課は、狩人と研究機関の橋渡しをしてるだけって感じかな。チェシャ猫が拾ってくるレイシーの灰はうちに提出されるけど、うちでは開けず、研究機関に引き渡す。その研究機関っていうのが……」


 彼がそう言うなり、チェシャ猫とシロの視線が、カウンター席に集まった。


「ポイソンコーポレーション。正確には、その中の研究室のひとつ、夢ちゃんが取り仕切る『山根班』」


 愛莉も、カウンターの方に顔を向けた。突っ伏して眠っている草臥れた女は、気持ちよさそうにすやすや眠っている。


「レイシーの研究は、統計学だ」


 深月が両手の指を絡め、テーブルに肘をつく。


「得体のしれない化け物であるレイシーは、人知を超えた存在だからな。捕獲して調べれば人間が喰われる。つまり駆除したあとの灰しか、調べる緒がないわけ」


 そう話す深月の言葉を受け、シロが言う。


「この灰の成分を分析し、過去のレイシーの例として記録しているのが、山根さんたち。調査した母数を増えれば増えるほど、後発の似た傾向のレイシーを対策しやすくなるんだよ」


 そこで、眠っていた女が、はたと顔を上げる。


「ハッ。私、また寝てた」


 目を擦って伸びをする彼女――山根を、シロはパフェグラス片手に労った。


「寝てたよ。また遅くまで残業してたのかな?」


「うん。でもね、おかげでいろんなことが分かったわ。その報告をしようと思って、これ、シロちゃんに持ってきた」


 山根は眠たそうに頭を擡げ、ポイソンコーポレーションの社名が入った封筒を、シロに突き出した。シロはパフェグラスを置いて、その封筒を受け取る。


「山根さんから僕に直接? それこそ深月くんを経由すべきじゃない?」


「ううん。とりあえず見ておいて。それじゃ、私はまだ仕事残ってるので」


 山根はそう言って席から立ち上がると、欠伸をしながら店の扉を開けた。

 チリン。鈴の音がする。愛莉は店を出ていく山根の背中を、不思議そうに眺めていた。そして自身も椅子を立ち、彼女の疲れた背中を追いかけた。

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