Act.4
連続飛び降り自殺
冬が深まったある日の、『和心茶房ありす』の窓際のテーブル。カーテンの隙間から差し込んだ夕日が、テーブルにグラデーションを描いている。そのテーブルにつく、チェシャ猫とシロの姿があった。
「地理的に、ここも範囲内に含まれてるよね」
テーブルの上の盤上で駒を動かし、シロが言う。彼の一手に続き、今度はチェシャ猫が駒を手に取る。
「余裕で圏内だな」
「こういうとき、正体がはっきりしないの怖いよねえ」
少し眉間に皺を寄せ、チェシャ猫が駒の移動先を決める。チェシャ猫の駒が動けば、シロは迷わず、すぐに次の一手を決めた。
チリン、と鈴の音が鳴る。店の扉が開き、制服姿の愛莉が顔を覗かせた。
「やっほー。今日もお客さんはチェシャくんだけかあ。相変わらず流行ってないなあ」
「やあ愛莉ちゃん、いらっしゃい。今日はゆっくりだったね」
シロが盤面から顔を上げる。愛莉は鞄の肩ベルトを引っ張り直し、ふたりに駆け寄った。
「うん、テストでふたつも赤点取っちゃってさ。二週間みっちり毎日、放課後は補習なの」
「あんた……悪いことは言わんから、ちゃんと勉強した方がいいぞ」
チェシャ猫が眉間の皺を深める。またひとつ、駒を動かす。愛莉はふたりの手元のボードゲームを覗き込んだ。
「ふたりとも、なに遊んでるの? チェス?」
「将棋」
チェシャ猫が答える。愛莉は盤面を見るなり、はあと間抜けな声で感嘆した。
「わあ、ルール知らないからどういう状況なのか全然分かんないや。今日の小テストみたい」
「小テストは授業受けてれば解き方のルール分かるだろ」
チェシャ猫が呆れ顔を向けると、愛莉はそれすらも嬉しそうに頬を緩めた。
「全然分かんなかったから、答え合わせ中はテストの裏にラブレター書いてたの。チェシャくん、受け取って!」
愛莉は楽しそうに鞄をあさり、中から四つ折りに畳んだテスト用紙を取り出した。チェシャ猫が嫌そうな顔で一瞥する。
「いや、答え合わせしろよ。そんで復習しろ」
そしてそのテストの裏のラブレターが視界に入ると、彼はさらに顔を顰めた。ぱっと見ただけでも、誤字脱字が散見される。
「これは……テスト以前に、こっちの文面に赤字入れたい気分だ」
「えっ。読んでくれる?」
期待に目を輝かす愛莉に、チェシャ猫はにべもなく、手紙の書き出しから指さした。
「まず、差し出す相手を示す『チェシャくんえ』の『え』は『へ』だ。その程度の手紙のルールは知っていてくれよ。それとここの漢字が違う。ここは文法が妙だ、主語がズレてる」
「わー! やだやだ! 補習の延長戦やだー! 」
愛莉は首を振って拒絶し、ラブレターを書いたテストを鞄に突っ込んだ。
「間違ってるとこは『あたし流』ってことで受け止めて、パッションで読んでよ!」
「読み手に委ねんな」
仲良く喧嘩をするふたりを可笑しそうに眺め、シロが駒を移動させる。
「愛莉ちゃんは頭脳よりハートで勝負だもんねー。こんな時間まで補習じゃあ、お腹空いたでしょ。なにか食べる?」
「うん。普段使わない頭使ったし、甘いもの食べたいな。でも対局が終わったらでいいよ」
「大丈夫。もう勝つから」
シロが駒をひとマス動かした。途端に、チェシャ猫の険しい顔が一層険しくなった。相対するシロは、そんな彼を面白そうに眺めている。チェシャ猫は数秒将棋盤を睨み、やがてくたっと仰け反って、椅子の背もたれに体重を預けた。
「参りました」
「わあっ、負けを認めるチェシャくん見たの、初めてかも! シロちゃんすごーい!」
愛莉が興奮気味に拍手する。勝利したシロ以上にはしゃいでいる彼女に、チェシャ猫は不機嫌な目つきをぎろりと向けた。
「別に、俺だってゲームで負ければ負けを認めるくらいはする」
「ふふ。僕ね、将棋ならチェシャくんに一度も負けてないんだよ。逆に言えば、チェシャくんは僕に一度も勝てたことがないのに、懲りずに僕に挑んでくる」
シロが椅子から立ち上がる。
「さて愛莉ちゃん。甘いもの、なに食べる? 今日は負けたチェシャくんの奢りだよ」
「おい、なんだそれ。聞いてねえぞ」
チェシャ猫がブーイングするも、シロは撤回しないし愛莉は大喜びで飛びついた。
「やったあ! じゃあ、柚子はちみつシフォンケーキ! それと温かいジンジャーティーも」
「かしこまりました。チェシャくんはいつものでいい?」
「ん。頼む」
不満そうだったチェシャ猫も、観念して文句を言わなくなった。
愛莉はシロが座っていた椅子を引き、そこに腰を下ろした。カウンターに入ったシロが、おざなりに尋ねる。
「この前言ってた、愛莉ちゃんと仲良くなりたい男の子とは上手くいってる?」
「あー、あの人か。名前なんだったかな……。あれっきり会ってない。クラスが違うから、会う機会がない」
愛莉が盤面を横目に、鞄を床に置く。シロはへえ、と間延びした声で返した。
「あんまり盛り上がってないんだね」
「うん。メールくらいは一日に一、二通やりとりするけど、挨拶程度」
あっけらかんと言い放つ愛莉に、シロは微笑む頬を引き攣らせた。
「愛莉ちゃん、意外と素っ気ないね」
「そうかな? 他の友達にも、大体皆、こんな感じの接し方してるよ?」
「いやあ、だってその男の子は他の友達とは違うじゃない? 恋愛感情を伝えられてるんだからさ」
「うーん。いい人なのは分かってるけど、でもあたしはチェシャくんの方が好きだから。ナントカくんはあたしにとって、そこまで特別じゃないんだよねえ」
愛莉はテーブルの上で腕を組んで、チェシャ猫とシロとを見比べた。
「ところでふたりとも、さっきなんの話をしてたの? お店の窓の外から見てたよ。チェシャくんがだんだん顔が怖くなってくのまで分かった。あっ、もしかして単に戦況が悪かったから?」
「んー、そうだな。愛莉ちゃんには話しておいた方がいいな」
ケーキの用意を始めながら、シロは作業がてらに返した。
「先日、池袋のビルから飛び降りがあったでしょ」
「うん、ニュースで見た。夜中だったから見てた人もいなくて、朝になってから見つかったってやつだよね」
愛莉はテレビで知った報道を思い出していた。池袋の商業ビルの屋上から、老人が転落死した。警察は自殺とみて調べているそうだ。
シロが少し、声のトーンを落とした。
「実はね、その前にも二件、近隣で飛び降り自殺が続いてるんだ。最初は上野で、次は神奈川で、そして直近ではまた都内に戻って、例の池袋」
「そうなの?」
「うん。ニュースになってないだけで、これが一ヶ月以内に連続してるんだよ」
最初の事件は上野。サラリーマンが、自宅アパートから飛び降りて死亡。遺族の意向で報道はされていない。その次は少し離れた神奈川、廃ビルの下で女の遺体が見つかった。こちらは池袋の件ほど注目を集めなかったが、報道はあった。
愛莉は見ても分からない将棋盤を眺め、唸った。
「被害者の年齢層や性別もばらばらだけど、ここまで立て続けだとなにか関係あるのかなって思っちゃう。一件起こると続くよね。どうしてなのかな」
「そうだね、ニュースで流れることで触発されるってケースもあると思うけど……今回のは、ちょっとそうじゃなくてさ」
シロがカップをふたつ並べて、それぞれに茶を注ぐ。
「愛莉ちゃんの言うとおり、これらの事件は一見関連がないように見える。でも実は、この被害者たちには共通点があるんだ」
「共通点?」
「うん。ニュースでは絶対に言われないけど」
シロは盆にケーキと茶を載せて、カウンターから出てきた。柚子はちみつシフォンケーキの皿を、愛莉の前に置く。
「全部、狩人なんだ」
「え!?」
愛莉はぎょっと目を剥いた。大きな目をより大きく見開く彼女に、チェシャ猫が気だるげに言う。
「管轄の役所が情報を共有して発覚したらしい。本人たちに接点はなく、示し合わせて自殺したわけでもない」
「たまたま偶然、全員死にたい気分だった、なんてこともないだろうしね」
シロはふたり分のドリンクメニューをテーブルに置き、真剣な声色で言った。
「となると、狩人を狙ったレイシーの仕業である可能性がある。だから僕らのところにも、異例中の異例でそんな通達が来たんだ」
しばらく、愛莉は口を半開きにして固まっていた。まばたきをせずに呆然とシロを見上げ、数秒後、将棋盤に目を落とす。それからも数秒黙ってなにかを考えて、ようやく、ぽつりと言葉を発した。
「そんなことってあるんだ……」
彼女は小首を傾げ、フォークを手に取った。
「あれ、でも待って。狩人の存在は極秘で、レイシーには知られないように活動してるんだよね? どうしてレイシーに気づかれちゃったの?」
レイシーを取り逃せば、生き残ったレイシーは自分たちに対抗する存在があると気づく。だから顔を覚えられたら、確実に仕留めなくてはならない……と、チェシャ猫とシロから聞いている。
シロは難しそうに下を向いた。
「それこそこの三名は、レイシーに逃げられて顔を覚えられてしまったのかもね」
「そういえば、この前の観光バスのも、他の地域から逃げてきたって話だったよね。絶対仕留めるっていうのが第一条件だとしても、失敗しちゃうときもあるよね……」
愛莉が言うと、シロが盆を抱えて苦笑いをした。
「今のところ、うちの優秀なチェシャ猫くんは、どの件も完璧にこなしてる。たまにしくじりかけてるけど、一度噛み付いたら死んでも離さないって感じで強引に駆除してくれてる」
愛莉はシフォンケーキにフォークを入れつつ、チェシャ猫を見上げた。
「チェシャくんも狩人だから、今回の件のターゲットになりうるんだよね」
「あんたも他人事じゃねえぞ。俺にくっついてきてると、そのうちどこかから情報が洩れてあんたも狙われるかもしれない」
チェシャ猫が冷ややかに返すと、愛莉はシフォンケーキを口に運びはにかみ笑いを浮かべた。
「心配してくれてるの? ありがとー」
「まさか。俺の仕事に支障を出されると迷惑だから言ってんだ」
「あまのじゃくでもかわいいし、本気でそう思ってても素敵だね」
愛莉は機嫌よさげにぱくぱくとシフォンケーキを頬張る。
「これおいしい! シロちゃんの作るケーキはどれも絶品だね」
「愛莉ちゃんはいつも緊張感がなくて、見てると和むよ」
シロはくすくすと笑うと、近くの席から椅子を引いてきてそこへ腰掛けた。
「でさ、関係あるかどうかは定かじゃないけど、以前この店に『人ならざる者とそれを追う者』の話をしに訪ねてきた人がいたって話をしたでしょ。僕さ、妙にそれが気になっちゃうんだよね」
「あっ! 分かった。狩人狩りのレイシーは、きっとその人だ。どこからか流出した『チェシャ猫』の噂を聞いてチェシャくんを狙いに……」
「ストップ。確証もないのに言い切っちゃだめ」
愛莉が勇んで語りはじめるも、シロが声を被せて止める。
そのとき、リンッと、扉の鈴が激しく揺れた。
「シロちゃーん! お届け物でーす!」
入ってきたその人物に、視線が集まる。スーツ姿に黒縁眼鏡の、シロと変わらない年齢と見られる男だ。
さっぱりした雰囲気のナチュラルな男なのだが、彼が小脇に抱えた「お届け物」には、愛莉はぎょっと目を丸くした。
名前を呼ばれたシロは、いつもどおりの柔和な笑みで迎える。
「あー、そっちに届いてたんだあ。待ってたんだよ」
「うちの仮眠室に落ちてたから持ってきちゃった」
入店してくる男が、脇に抱えて引きずっていたそれは。
「むにゃむにゃ……もっと……お給料もっと振り込んでいいんですよお……」
寝言を言いながら安眠している、人間の女性だったのだ。
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