ロシアンルーレット

「もうね、すごかったんだよ。たったひとりで、たくさんいるレイシーの懐に自ら突撃して、次から次へとナイフで……!」


 翌日の『和心茶房ありす』には、興奮気味に語る愛莉の姿があった。


「俊敏な動きはさながら猫だね、流石チェシャ猫。ううん、気迫はもはや虎だった!」


「愛莉ちゃんはチェシャくんをよく褒めるねえ。なんだか怪気炎すぎて、話を盛ってるように聞こえてくるよ」


 シロがカウンターに寄りかかって苦笑いする。彼はそのまま、視線を奥のテーブルにいるチェシャ猫に移した。


「お疲れ様、チェシャくん。かすり傷と打撲を少し負ってるけど、大怪我はしてないようで良かったよ。愛莉ちゃんに至っては無傷。君が守ったとは思わないけど、結果として愛莉ちゃんに危害が及ぶ前に片を付けたってことだよね」


「別に。そいつに危害が及ぶもなにも、レイシーどもはそいつに触れないみたいだったし」


 チェシャ猫は片手で携帯を操作していて、シロと愛莉の方には目をくれない。シロはカウンターに肘を乗せ、チェシャ猫に声を投げた。


「チェシャくん、いつの間に接近戦も得意になってたんだね。練習したのかな? 偉い偉い」


「この職は絶対に失敗できねえからな。あらゆるリスクを削るためにも、できることは多い方がいいだろ」


 チェシャ猫が携帯を弄りつつ返す。愛莉のべた褒めに面映ゆげな顔をするでもなく、むしろとっくに辟易している。冷たい態度の彼に、シロは反抗期の子供を見守るような視線を向けていた。


「頑張ったね。君の仕事熱心なところには感心するよ」


「シロさんは、以後そいつに仕事内容を知られないようにもっと用心してくれ。メモを勝手に見て、現場に出てこられちゃ困る」


 チェシャ猫がぎろっとシロを睨む。シロが返事をする前に、愛莉が右手を上げた。


「でもチェシャくん、レイシーがひとり逃げそうになったとき、あたしに出口を塞ぐように指示したよね! あたしがいたおかげで全部一掃できたんじゃん!」


 途端に、チェシャ猫の携帯を弄る指がぎくりと止まった。シロのにこにこスマイルも、すっと温かみが消える。


「なにそれ、聞いてないよ。チェシャくん、愛莉ちゃんを危険な目にあわせないようにしようねって約束したよね?」


 チェシャ猫は携帯の画面から目を離さず、鉄仮面を貫いていた。実は彼は面倒を避けようとして、愛莉に協力を仰いだことをシロに隠していたのである。バレてしまったチェシャ猫は、堂々と返した。


「利用できるものは最大限に利用した方がいいだろ」


「開き直らない。全くもう、愛莉ちゃんの『明るさ』が必ずしも通用するとは限らないでしょ! レイシーなんてどんな事案も例外だらけなんだから!」


「そもそもシロさんの不注意で、こいつが現場に現れたのが始まりじゃねえか」


「そうやって話をすり替える! あのねえ、チェシャくんはいつもいつも……」


 チェシャ猫とシロが揉め出したところで、店の扉の鈴がチリンチリンと鳴り響いた。来客の知らせを受け、ふたりの喧嘩が強制終了する。

 現れたのはキャップ帽を頭に被った、ハイテンションな男だった。


「ハローハロー! 毎日がエブリデイ! 今日という素晴らしい日にハロ……」


「うるせえ」


 入店してきた男……即ち羽鳥の長い挨拶は、チェシャ猫の一喝によって遮られた。

 羽鳥は一旦口を結んだが、ほんの一瞬である。すぐにまた陽気な態度に戻り、チェシャ猫に歩み寄った。


「ハロー、チェシャ猫。俺ちゃんのマルチツールちゃんは大活躍だった? だったよね? だったと言え」


 今日もガラガラとトランクを引いている。チェシャ猫は眉間に深い皺を刻み、紙袋に入れたマルチツールをずいっと羽鳥に突き出した。


「誰が言うか。まるで役に立たなかったぞ」


「なんてこった! この革新的な武器はチェシャ猫にはまだ使いこなせなかったか」


「俺に問題があるかのように言うな」


 両手を広げてコミカルなリアクションを取る羽鳥と、不服げに顔を歪めるチェシャ猫とを見て、シロが口を挟む。


「マルチツールって、例の羽鳥くんの新作だよね。あまりチェシャくん好みの使い勝手ではなかったみたいだね」


「俺好みとか、そういう次元の問題じゃない」


 チェシャ猫が紙袋を突き出して言う。羽鳥は両手を顔の横に広げたまま受け取ろうとしない。愛莉が思い出したように付け足した。


「重くて反応悪いんだっけか? 正体不明の液が出たの、気味悪かったなあ。おまけにいざってときにダミーが発動して、なんかおめでたい感じになっちゃったし」


 それを聞くなり、羽鳥は広げた両手を合わせてパチパチパチと拍手をはじめた。


「ダミー発動おめでとう! それはどのツールに切り替わっていても一定の確率で発動するよ。紙テープと花吹雪のクラッカー編と、鳩が飛び出すマジック編と、バラが咲くプロポーズ編があるんだ」


「要らねえ機能つけてんじゃねえよ。こっちは命懸けなんだよ」


 チェシャ猫がついに、紙袋を羽鳥の胸に叩きつけた。途端に、羽鳥は火がついたように哄笑しはじめる。


「あはははははは!」


 中からマルチツールを取り出して紙袋を床に捨てたかと思うと、銃口をあちこちに向けて大笑いする。


「命懸け! いい言葉だ。そうだ、どうせならスリルは多い方が楽しい。だから俺ちゃんはこのマルチツールでチェシャ猫の運命を弄んだ。くはは!」


「なに笑ってんだ? 気持ち悪いな」


「俺ちゃんが仕込んだマルチツールの面白機能は、チェシャ猫の仕事も、未来も、命さえも奪う可能性を秘めている。全力で遊ぶ、というのはそういうことさ。この世のあらゆる森羅万象全てのもので遊び尽くして、神様の怒りを買おうじゃないか」


 羽鳥は狂ったように笑い続ける。笑いが止まらない羽鳥を睨み、チェシャ猫は諦めたように携帯の画面に目を落とした。


「意味が分からん」


「意味なんて必要か? 君をはじめ誰しも、なにかにつけて意味を考えてしまうよね。分かる分かる、俺ちゃんもすぐ理屈で考えちゃう。でもさ、本当は意味などないのかもしれないよね。きっと『意味不明』とはそういう存在のものを言うんだ。そう、『不思議の国のアリス』の物語が、着地点が曖昧なまま進むようにね」


「全く中身のないこと言ってやがるな」


「はははは! 中身がない、なんにもない。意味がないって素晴らしいなあ!」


 狭い店内を笑いが満たす。笑いやまない羽鳥に、愛莉はぽかんとしていた。だがちらりとシロの顔を窺い、彼が平然とグラスを拭いているのを見て「いつものことなんだな」と察した。

 愛莉は羽鳥を、初めて会ったときから変わった人だとは思っていたが、改めて見ていてもやはり変わっていた。羽鳥というこの男は、価値観や考え方が世間一般とズレている。そして本人はそれを楽しんでいる。きっと自身を取り囲む世界そのものが、自分とは違って見えている――と、愛莉は思った。そしてそれを、世間はシンプルな表現で「頭がおかしい」と一括してしまう。

 否、羽鳥は単純に、文字どおり頭がおかしいのかもしれないが。


 ひとしきり笑い終えた羽鳥は、呼吸を整えて急に床にしゃがんだ。マルチツールを粗末に床に降ろして、トランクを開ける。


「ほい、チェシャ猫。これお返ししちゃうよ」


 トランクから出てきたのは、チェシャ猫が使用していた拳銃だった。酷い壊れ方をしたあの拳銃は、傷跡ひとつ分からないほどきれいに修繕されている。

 愛莉はわあっと目を丸くした。


「もう直ったんだ! 思ったより早かった」


「講義サボって直したからねえ」


 羽鳥がピースサインをする。愛莉は椅子の上で上体をやや前のめりにして、きれいになって返ってきた拳銃を眺めた。


「マルチツール、使いにくそうだったけど面白かったから、これでおしまいなのちょっと寂しいなあ」


「アホか。あんなふざけた武器、二度と使いたくない」


 しゃがんだ姿勢で拳銃を手渡してくる羽鳥を、チェシャ猫は数秒冷ややかに睨み、拳銃を受け取った。


「こいつに余計な機能付けてねえだろうな」


「あー! その手があった! 普通に直しちゃった。もう一回弄らせて」


「こう言ってるなら、ひとまず大丈夫そうだな」


 一度渡した拳銃を取り返そうと、羽鳥がチェシャ猫に飛びつく。チェシャ猫は素早く上着の中に拳銃を隠し、両腕でガードした。


 ふたりのやりとりを傍観し、愛莉はひとつ安堵のため息をつく。


「とりあえず、これでまたチェシャくんはいつもどおりにお仕事できるね」


「そうだね。これでひと安心かな」


 シロが愛莉に同意し、それから彼はティーカップを持った手をポンと叩いた。


「そうそう! この前、変わったお客様が見えたんだよ」


 シロの呼びかけで、チェシャ猫と羽鳥も振り向く。シロは退屈そうにティーカップを磨いて、おざなりに話した。


「『人ならざる者と、それを追う者が、この世に実在すると聞いたら信じますか?』なんて質問されたんだよ。どう思う?」


「同業者!?」


 盛大にリアクションしたのは、本人より愛莉の方である。


「人ならざる者はレイシーで、それを追う者は狩人だよね。その存在を知ってるってことは、そのお客さん、仲間だよね!」


 大袈裟に叫んで椅子から立ち上がる彼女に、チェシャ猫が冷たい目をじろりと向ける。


「そうとも限らないだろ。その手の漫画とか小説とか映画とか、そういうものに感化されてる人じゃねえか?」


「そうかもね。仮に愛莉ちゃんの言うようにレイシーを知ってる人だったとしても、仲間とは限らない」


 シロがにこにこ顔で付け足す。


「逆にレイシー側かもしれないんだよ。自分たちがなんと呼ばれていて、駆除しにくる人間がどんな奴らか、調べに来た、なんてこともありうる」


「そっか、そういうこともあるのか」


 愛莉が首を傾げ、椅子に腰を下ろす。シロは改めて切り出した。


「そんなわけだから、質問には『信じないけれど、その手の非現実的な物語は好きです』と答えたよ」


 それからちらりと、シロはチェシャ猫に目配せをする。


「けどさ、ピンポイントでこの店を訪ねてきてそんな質問をされたのは、ちょっと怖いよね。ここに出入りしてる客に、レイシーをたくさん駆除した狩人がいるって、目星つけられてるみたいでさ……」


 そう話すシロを見上げ、しばらく静かになっていた羽鳥がふうんと鼻を鳴らした。


「あれまーや。レイシーがチェシャ猫を嗅ぎつけたってこと? チェシャ猫、いよいよ取り殺されるんじゃないかにゃ?」


「なるほどな、気をつけろと」


 チェシャ猫が鬱陶しげに腕を組む。


「だけど、そんなに気を張らなくても大丈夫だろ。襲ってくるならむしろ自己紹介してくるようなものだ、殺される前に殺せばいい」


 きっぱりと言い切るチェシャ猫を一瞥し、シロは磨き終えたティーカップを棚に置いた。


「チェシャくんは豪快だな。レイシーはいつどんな姿で、どんな手段で近づいてくるか分からないのに」


「大丈夫だっつってんだろ。俺は誰の邪魔も受けない」


 チェシャ猫の瞳が、シロをしっかり射抜く。


「ていうか、あんたがさせねえだろ。俺はあんたに借金を返しきるまで、狩人であり続けなくちゃならない」


「……そうとも言うね」


 シロはいつもどおり、穏やかに笑っている。チェシャ猫とシロとを交互に眺め、愛莉は小さく呟いた。


「そっか、チェシャくんのヘマはシロちゃんが許さないのか……」


「そもそも俺がそんな間抜けな失敗をするわけがない。シロさんこそ気をつけろよ、妙な奴に目をつけられてるのは、シロさんでもあるんだからな」


 自信たっぷりのチェシャ猫を横目に、羽鳥は床に落ちていたマルチツールを拾った。


 そしてカチャ、と静かな金属音を立てる。


 羽鳥の持つマルチツールの銃口は、チェシャ猫の額に当てられていた。


「『間抜けな失敗をするわけがない』? どうかね。狩人『チェシャ猫』は、油断してると笑っちゃうくらい隙だらけ」


 羽鳥がにやりと笑み、愛莉が口を半開きにする。シロはカップを口につけたまま目線だけ向ける。チェシャ猫は、無言で羽鳥を睨んでいた。

 羽鳥の指が、引き金を引く。パンッと破裂音がして、マルチツールが反動で飛び跳ねた。

 はらり。床に落ちたのは、赤い花弁だった。


「チェックメイト」


 羽鳥が目を細める。対するチェシャ猫は、不快そうに彼を睨んだままだ。


「実弾だったらな」


 マルチツールの銃口からは、赤いバラが突き出していた。


 羽鳥ははらりと舞う赤い花をしばらく見つめていたかと思うと、再びケラケラを笑いはじめた。


「あはははは! ダミープロポーズ編発動! うひゃひゃひゃ! 大丈夫大丈夫、ちゃんと無害なツールに切り替わってるの確認してから撃ったから!」


 マルチツールを放り投げて腹を抱える。シロがくたりと項垂れて、大きなため息を洩らした。


「もう。ちょっと、ひやっとしちゃったじゃないか。羽鳥くんの狂った頭なら、理由も脈絡もなく他人を撃ち殺しかねない。チェシャくんも! 今この店でリラックスしてるのは嬉しいけど、自分の強さに胡座をかいちゃだめだよ。油断は禁物!」


「油断……じゃねえし。マグレだ」


 歯切れの悪い言い訳をするチェシャ猫に呆れ目を向け、シロはティーカップとポットを手に取って茶を注ぎはじめた。


「チェシャくんも僕も、羽鳥くんも、一応愛莉ちゃんも。なにか嫌なものが近づいてくるかもしれないから、お互い気をつけようね。羽鳥くんが言うには『スリルは多い方が楽しい』そうだけど、僕はスリルより安心の方が好きだなあ」


 そう締め括ると、自分用に入れた茶をのんびり啜り、ひと息ついた。

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