Act.2
好奇心の権化
一週間ほど前のこと。愛莉は制服姿のまま、懐中電灯を手に夜の山の中を漂っていた。自身の前には、足早に進む友人の後ろ姿がある。
「ねえ絵里香。帰ろうよ。歩き疲れた」
愛莉が泣き言を言うも、友人、絵里香は半笑いで受け流す。
「もう少しだから我慢してよ。一緒に写真撮るって約束したじゃん」
その約束を、愛莉は心の底から後悔していた。
この日の昼、愛莉と絵里香は携帯でインターネット上のホラー掲示板を見ていた。そこに投稿されていた心霊写真に、絵里香の目が止まった。山の中のトンネルに、人間の生首が三つほど写り込んでいる写真である。
このトンネルは、絵里香の家の裏山のものだったのである。「合成ではないか」「実際に撮ってみたら本物かどうか分かる」などと盛り上がり、結果、こうして本当に写真を撮りにこの山を訪れたのだ。
山の獣道を散策すること十分程度。
暗くて寒くてつまらなくて、愛莉はすでに飽きていた。その上、絵里香の足が徐々に迷いげになっていく。
「あれ……こっちで合ってたはずなんだけどな。曲がるとこ間違えたかな」
「ちょっと絵里香、迷ったの!?」
愛莉が声を張り上げると、絵里香は誤魔化し笑いで言った。
「あはは、ごめんごめん。最後に行ったの小学生の頃だし、しかも暗くてよく見えなくてさ。ちょっと待って、ちゃんと着くから」
「もー、帰れないなんてことないよね!? 寒いよー、眠いよー、疲れたよー」
絵里香に文句を聞かせながら歩いていると、突然すっと、愛莉を脇から追い越す男が現れた。
「ひゃっ」
思わず、悲鳴を上げて立ち止まる。先を歩いていた絵里香も追い越され、同じく短く叫んだ。
ふたりを無言で追い越した後ろ姿は、山の暗闇に溶け込んでしまいそうな、黒いモッズコートの青年だった。やけに山道を歩き慣れており、ファー付きのフードがどんどん遠のいていく。
「なにあの人。いつからいたんだろ……」
絵里香が驚嘆顔でぽつりと呟いた。
愛莉も同じことを思った。いつの間に後ろについていたのだろう。横を通られるまで、気配に全く気が付かなかった。
すれ違ったときに懐中電灯の灯りの中に見えたのは、背中の丸まっただらしない姿勢に、草臥れた上着と着古したジーパン。目にかかるほどの黒髪の、もさっとした冴えない風貌だった。
と、愛莉は両手を口の横に当て、大声でその青年に呼びかけた。
「すみませーん! お兄さん、トンネルの場所知ってますかー!」
「えっ、愛莉!?」
絵里香がぎょっと愛莉を振り向く。声をかけられた男も、立ち止まって愛莉の方に顔を向けた。愛莉は絵里香と目を合わせる。
「だってあの人、歩き慣れてるっぽかったから。トンネルの場所も知ってるかも」
「だからって、知らない人にいきなり声かけるとは思わなかった」
絵里香が驚きつつも青年の反応を窺う。愛莉も期待に満ちた目で、懐中電灯を向けて彼の返事を待った。
しかし、青年の反応は芳しくなかった。
心の底から迷惑そうな目でじろりと愛莉を睨み、返事もせずに立ち去っていく。愛莉は慌てて彼の背を追った。
「ちょっとちょっと無視しないでよ。ねえねえ教えて、案内して!」
しつこく声をかけると、青年はチッと舌打ちして目を合わせず吐き捨てた。
「この辺は危ない。帰れ」
「あっ、やっと喋ってくれた。あのね、あたしたち心霊スポットのトンネルを目指して来たの。写真撮ったらなんか写るかなって」
「知らん。帰って寝ろ」
青年は早足になって、愛莉から逃げ出した。愛莉は追うのをやめ、むすっと頬を膨らめた。
「なによ。ノリが悪いんだから」
あの青年はこれ以上尋ねても助けてくれない。愛莉は絵里香の元へ戻った。
「やっぱり変な人だった。迷ってる人がいるんだから、せめて方向くらい教えてくれたっていいのに」
「まあまあ。この山そんなに大きくないから、すぐ辿り着くよ 」
絵里香が愛莉の肩を叩き、ふたりは再度散策に戻ったのだった。
トンネルを見つけたのは、それからさらに十分後くらいだった。
「あったー!」
「見つけたー!」
ふたりは同時に歓声を上げ、両手を振り上げて喜んだ。
トンネルは、鬱蒼と繁る森の中にひっそりと口を広げていた。かまぼこ型の入口は真っ暗な闇を携えており、懐中電灯を当てても数メートル先からもう暗闇しか見えない。まるで果てがなく、どこまでも闇が続いているかのように思えた。
「行こ、絵里香」
愛莉が携帯を片手に突き進むと、絵里香が慌てて彼女の手首を掴んだ。
「待って、入るの?」
「え。写真撮るために来たんだよね? 入るでしょ?」
平然としている愛莉に対し、絵里香はすっかり白い顔をしている。
「愛莉は怖くないの?」
「絵里香、ここまでノリノリだったくせに、急に躊躇ってる。情けないな」
「だってなんか、思ってたより不気味なんだもん」
「でもこんなに頑張ってここまで来たんだし……」
「それもそうか」
まだ声は震えていたが、絵里香は腹を決めた。
愛莉と絵里香は、右手に携帯、左手に懐中電灯を握りしめて、トンネルの中に足を踏み入れた。懐中電灯で照らしたトンネル内部は、砂埃で汚れており、壁には落書きだらけだった。
「思ったより雰囲気ないね。そろそろ写真撮る? もうちょっと奥に行く?」
愛莉が絵里香に問う。だがやはり平気なのは愛莉だけで、絵里香の方はカタカタと震えていた。
「愛莉、あれ……」
絵里香の視線が、トンネルの奥を見つめている。愛莉は目をぱちくりさせて、懐中電灯で照らした方向に目を凝らした。
そして、ハッと息を呑む。
奥にぬっと背の高い、黒い人影がある。いや、落書きがそう見えるだけかもしれないし、壁の凹凸がそんな影を作っているだけかもしれない。
しかしずっと見ていると、それはゆらりと動いた。
「えっ……」
愛莉が小さく呟いた、そのとき。
「きゃー!」
絵里香の甲高い悲鳴が、愛莉の耳を劈く。そして隣にいたはずの絵里香が、全速力でトンネルの外へと逃げ出していくではないか。
愛莉は懐中電灯の絵里香の方に向けた。
「絵里香!? 待って!」
絵里香を追いかけようとした愛莉だったが、先程見えたあの影がどうにも気になる。戻る前にもう一度トンネルの奥側へと灯りを向け、そして、絶句した。
いつの間にか真後ろに、「それ」は立っていた。
天井までつくほどのニョロリと高い背丈の、ぼろぼろの汚れた作業着の男だ。肌は炭のように黒く、おかしな方向に曲がった肢体からは無数の蛆虫らしきものが這う。外側に曲がった指には、人間の頭を握っている。
「ひゃあっ!」
愛莉は咄嗟に飛び退いて、それと距離を取った。動いた拍子に懐中電灯が地面を向くと、相手は暗闇に包まれ、その途端にぬっと腕を伸ばしてきた。反射的に懐中電灯を向けると、腕が止まり、その代わり男の頭がぐらりと外れて地面に落ちた。
愛莉はその謎の巨体を見上げ、硬直していた。そして腰の力が抜け、その場にへたりと座り込む。
なんだ、これは。
たしかに自分は、心霊写真を撮るためにここを訪れた。だがまさか肉眼で、それもこんなもの形容しがたいただただ恐ろしい「なにか」を目にするとは思っていなかった。
ぞくっと背筋があわだつ。逃げ出そうにも、立ち上がれない。愛莉は思うように動かない体で、必死にもがいた。
「待って……やだ。助けて」
黒い男が、なにやら呻いた。その瞬間、愛莉の懐中電灯がバチンと切れる。たちまち、愛莉は暗闇に呑み込まれた。
「えっ! やだ! なんで!? なんで消えるの!?」
慌てて懐中電灯の電源を入れたり切ったりを繰り返す。しかし全く反応しない。携帯も動かない。
暗くてなにも見えないのに、盛んに動く「それ」の気配だけは感じる。愛莉はまだ、懐中電灯の電源を押し続けていた。
「待って、なんで。点いてよ……!」
頭は恐怖で埋め尽くされていた。遊びのつもりでこんなところへ来てしまったことを悔やんだ。勢いで決めてしまった昼休みからリセットしたい。しかし今あるのは、体が痺れて動けない絶望的な現実だけだ。
「やだあ……!」
喉も痺れてきて声が掠れてきた、そのときだった。
突然、愛莉の周囲が一瞬だけ、白く光った。
全ての音が止まったようだった。光の中で、黒い男が倒れる。また光が差して、壁に生首が弾け飛ぶのが見えた。ピシッと、生温かい飛沫が愛莉の頬に降り掛かってくる。
パカ、と間抜けな音がして、愛莉の周囲が明るくなった。今度は瞬きでなく、光が持続している。この灯りの色、範囲は、つい先程まで自分の手元から見ていたものだ。
自分の目と鼻の先には、こんもりと盛り上がった黒い砂の山がある。愛莉は恐る恐る、後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは、愛莉の懐中電灯を握った、モッズコートの男。
「危ないから帰れっつったろ、クソガキ」
呆然とする愛莉にそう言ったのは、紛れもなくあの、野暮ったい猫背の男だった。
「お兄さん……さっきの……」
愛莉はかくかく震えながら、小さく声を発した。
目の前の青年の手には、細い硝煙を上げる拳銃が握られている。長い前髪の隙間から覗く三白眼は、愛莉をじっと見据えていた。彼は灯った懐中電灯を地面に捨て、右手で耳に携帯を当て、モソモソと低い声を出す。
「シロさん。ターゲットのレイシー、駆除完了」
「れーしー……?」
「ついでに寄り付いてた別のレイシー……生首みてえなやつも。問題は……」
青年の瞳が、冷たく愛莉を射抜く。
「一般人をひとり、口止めしなくちゃならない」
いつの間にか、青年の拳銃が愛莉に向けられている。
愛莉は口を半開きにして、凍りついた。完全に言葉をなくして、蝋人形のように硬直する。
青年は携帯をコートのポケットに突っ込み、ひとつ、ため息をついた。
「この仕事、民間に見られるのは禁忌でな」
冷たい銃口が、愛莉の額に触れている。
「このことを一生口外しないと約束するか、口を開く前にここで死ぬか、選べ」
数秒の沈黙が流れた。やがて、銃口を突きつけられた愛莉は口を開く。
「かっこいい……!」
惚けて蕩けた、甘い声が出た。今度は青年が絶句する。頭上に疑問符を並べる青年に向けて、愛莉は大きな目をきらきらさせた。
「すっごい! ねえ、今のどうやったの!? すごくかっこよかった!」
「は?」
まるで自分に突きつけられた拳銃が見えていないかのようだ。愛莉は戸惑う青年に向かって前のめりになった。
「助けてくれてありがとう。すごい、映画みたい」
「あんた、自分の状況分かってんのか?」
「腰抜かして銃口向けられてるよ。それで、それで」
愛莉は火照った顔で、えへへとだらしなく笑った。
「恋に落ちてるよ」
「なんだと……」
いつの間にか、拳銃を掲げていた腕は角度が下がっていた。
「なに言ってんだ、こいつ」
壁一面が煤と落書きと黒い砂で汚れた、暗闇のトンネル。拳銃を構えた男と、立てなくなった女子高生。
愛莉は天真爛漫な笑顔ではにかんだ。
「あたし、姫野愛莉。もうお兄さんを忘れられそうにないから、お兄さんもあたしのこと、覚えてね」
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