ハートの女王

 水溜まりを這う黒い灰を、青年、即ちチェシャ猫は眺めて佇んでいた。左手には拳銃。下がった銃口からは、雨粒が滴っている。青年は雨に濡れた黒い前髪を払うでもなく、ぽつりと声を出した。


「なあ。あんた、コーヒー飲むか?」


「コーヒー?」


 明るい声の返事は、高いところから降ってきた。

 チェシャ猫の背後に一メートルほどの高さに積み上がっていた、コンテナの山からである。山のてっぺんに座るのは、コートのフードを頭に被った、小柄な人影。脇には肩から提げた鞄が垂れ下がっている。


「いらない。コーヒー、あんまし好きじゃない。シロちゃんの抹茶ラテの方がいい」


「参ったな。俺もコーヒーは苦手なんだ」


「シロちゃん飲むんじゃない? てか、チェシャくんがコーヒー飲めないの、意外かも。なんかかわいいね」


 こいつはどうも、こうして人をからかう。チェシャ猫は振り向きもせず、ひとつため息をついて、拳銃を下ろした。それをコートの内側のガンホルダーに収めてから、ポケットから五センチ程度の試験管を取り出し、雨水で溶けて泥になった灰を掬い取る。


「つうか、なんでついてきてんだよ」


 チェシャ猫が試験管の蓋を閉め、語調を尖らせる。フードの人物はくすくすと笑った。


「怒んないでよ。『かわいい』って、褒め言葉じゃん」


 無邪気な話し方をするフードの者に、青年がうんざりした声で返す。


「そんなところに上るんじゃない。コンテナの上は滑るだろ。落ちたら怪我する」


「あははっ。チェシャくんって冷たいんだか優しいんだかよく分かんない」


 ぴょんと、フードの人影がコンテナの山を飛び下りる。チェシャ猫の横に立ったその人物は、フードの口をくいっと押し上げて笑いかけた。


「お仕事、お疲れ様。今日も最っ高にかっこよかったよ」


 フードの中から覗くのは、栗色の髪と長い睫毛。滑らかな白い頬をした、可憐な少女――愛莉である。

 彼女はつまらなそうにため息をつき、唸った。


「あーあ。ほうじ茶のシフォンケーキ。それから梨のタルトも。先生にも食べてほしかったなあ。でも仕方ないよね。悪いことをしちゃったら、おいしいケーキはお預けだもんね」


 そんな彼女に、チェシャ猫はこっくり頷く。


「こいつ、家庭教師を名乗ってガキに近づいて、喰おうとしてたんだからな。事実、被害者の生徒はすでに精神力を二割くらいは喰われてただろ」


 有栖川瑠衣。職業、家庭教師。


 を、装った、名もなき怪異。


 家庭教師としてターゲットの学生に近づき、その精神力を少しずつ喰らい、弱らせ続ける。

 喰われた生徒は精神が不安定になり、学校に来られなくなった。瑠衣は度々生徒の家を訪問し、直接会い、また少しずつ精神力を齧った。完全に力を奪いきったら、魂を喰らうつもりだったのだ。


「ご覧のとおり、こいつらは死んでも死体が残らず、灰になる。こんなもんに、シロさんのケーキ食わすだけ無駄だろ」


 チェシャ猫は試験管をモッズコートにしまいつつ、ジャケットを睨んだ。


「まあ、個体名を名乗って人間に積極的に絡む奴は珍しいな。かなり人間くさい。だけど所詮、化け物は化け物だ。人間に似せた表情を作って感情があるかのように見せられても、冬の寒さを感じてないし、人間の常識を知らない」


 ジャケット、ワイシャツやスカート、靴なんかも、瑠衣自身と共に黒い灰になって雨に流れてしまった。

 その泥の跡を眺めて、愛莉が言った。


「レイシーって、すれ違うだけなら見過ごしちゃうけど、接してみると分かるものだね」


『レイシー』。

 この世の人ならざる者たちのことを、一部の界隈では『レイシー』と呼ぶ。

 レイシーは日常生活に溶け込み、人間に混じって生活を営む振りをする。そして、身近な人間を喰う、名もなき化け物たち。

 有栖川瑠衣も、そのレイシーの一種。人喰いの怪異である。


「過去の類似例だと、この手は一度決めたターゲットを喰うまで、次のターゲットに移行できないらしい」


「そうなの?」


「ん。シロさんを見つけて、次はシロさんと決めたようだったが、今狙ってるやつを喰いきってないから焦ってた。だというのにあんたが邪魔で、今のターゲットを喰いきれないから、苛ついてた」


「へえ! そっか、あたしが瑠衣先生のターゲット……友達を元気づけてたから!」


 愛莉はポンと手を叩き、目をきらきらさせた。


「あたしが週一で遊びに行ってたから、折角削った精神が回復しちゃってたんだね!」


「ほんとあんた、一体どうなってんだ?」


 チェシャ猫が真顔で首を捻る。


「毎日化け物に喰われた精神力を、週一で会っただけで修復するとか……しかも無意識に」


「あたしだって知らないよー。シロちゃんだってよく分かんないみたいだし」


 愛莉がよいしょ、と地べたにしゃがむ。それから自分の担任が変わり果てた、黒い灰に指を触れた。大雨を含んで、巨大な泥の塊になっている。


「これでお別れなんだね。先生、ばいばい」


 ぽつりと消えそうな声を出す愛莉に、チェシャ猫は怪訝な顔をした。


「化け物に同情か?」


「だって、瑠衣先生だもん。短い間だったけど、お喋りしたから友達だよ。たとえ化け物でも」


 愛莉が困り顔で笑うと、チェシャ猫はふう、と気だるげにため息をついた。


「安心しろ。こいつらは人間に溶け込むために感情があるかのように接しているだけで、実は欲求だけしかない」


「ふうん」


「研究によると、喰えなくて怒るとか、焦るとか、そういうのはあるみたいだけど。傍で暮らしてる人間に対しては、餌としか思ってない。らしい」


 容赦なく言われ、愛莉はほお、と感嘆した。


「そっかあ。じゃあ、瑠衣先生もあたしたちと仲良くしてくれてるように見えて、ごはんだと思ってたんだ」


「騙された気分になるだろ。人間が勝手に騙されてただけだけどな」


 チェシャ猫は黒い灰を見つめて、雨に消えそうな声で言う。


「人間のそういう気持ちに漬け込むのが、レイシーなんだ」


 チェシャ猫が朴訥と諭すと、愛莉はふうんと鼻を鳴らした。

 愛莉の手指が黒い泥を掬う。途端にそれらは空中に分散した。愛莉の手から零れるように、さらさらと粉になって透明になっていく。


「仮にこの人たちに、死の恐怖があったとしてもさ。あるとしてもきっと、チェシャくんの素早さなら痛みも恐怖も感じる前に死ねるよね。ほんと、チェシャくんのそういうところ、大好き」


 ジャケットの落ちた水溜まりも、染めていた黒い色が薄くなっていく。


「あ。瑠衣先生はチェシャくんに気づいてたから、その限りじゃないか」


 チェシャ猫は愛莉のフードを被った後ろ頭を眺めていた。


「つらいなら来なければよかっただろ」


「ううん、来てよかった。ちょっと悲しいけど、でも、思ってたより悲しくない」


「……そうか」


 チェシャ猫は小声で返して、次は普通のトーンで言った。


「もういいか。さっさと退散するぞ」


「はいはーい」


 返事をして、愛莉は立ち上がった。チェシャ猫の横顔を見上げ、蕩けるように頬を緩める。


「えへへ、その冷たい目。好きだなー」


 いつの間にか、雨が小降りになっている。黒いチェシャ猫は、すっかり冷めたコーヒーを片手に、雨の音を聞いていた。

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