黒いチェシャ猫
それから数時間後。愛莉が言っていたとおり、夕方から夜にかけてずっしりした曇天からは雨がぱらぱらと降り出していた。やがて雨は本降りになり、十時を回った今、すっかり土砂降りの大雨に変わっていた。
その大雨の中、瑠衣は傘も刺さず、繁華街を歩いていた。
「『あの子』、邪魔だな……」
水溜りに街灯の光が反射している。ぽつりと洩らしたひとり言、雨音の中では誰にも聞かれることはなかった。
有栖川瑠衣は、「お疲れ気味」だった。彼女の思いどおりにならなくて焦っているところへ、新しい目標ができた。余計に焦りが募る。
この悪天候なのに、繁華街は賑やかだ。厚着をした会社員風の団体がわいわい騒いで歩いているし、道行く酔っ払いに客引きが馴れ馴れしく話しかけている。居酒屋の窓明かりや電飾は眩しくて、濡れた路面がその光を反射して目をチカチカさせた。
瑠衣は、雨に打たれて街を彷徨った。
溺れるような大雨の繁華街で、赤い自販機の横を通りすぎる。瑠衣はふと、来た道を振り返った。そしてその青年と目が合う。
「……あ」
呟いたのは、瑠衣だったのか青年だったのか。
黒いシャツの上に黒いモッズコートを羽織った、黒髪の青年。肩には色を揃えたように黒い傘。正気のない瞳が、雨のカーテン越しに瑠衣を見据えている。
「あれ。あなたはたしか……チェシャ猫さん」
瑠衣が名前を呼ぶ。チェシャ猫はというと、ああ、と気まずそうに目を逸らす。
「やっぱ、一度顔を見られてると気づかれるもんだな」
チェシャ猫はそんな瑠衣を数秒じっと見つめ、やがてアスファルトにできた雨水の膜を踏んで、彼女に近づいた。
「なにやってんだ、あんた。傘もささずに」
チェシャ猫が瑠衣の上に傘を翳す。瑠衣の頭に降り注いでいた雨が止まり、髪から滴る水が彼女の顔をぽたぽた伝うだけになった。代わりに、チェシャ猫の重たい髪が雨に濡れていく。
瑠衣は濡れた前髪を顔に貼り付けて、チェシャ猫を見上げていた。
「そっちこそ、どうして私を追ってたんですか」
「あー……」
チェシャ猫はしばし考えて、結局答えなかった。瑠衣は、質問を変えた。
「愛莉ちゃんは、あなたに懐いているんですか?」
「は? ああ。なんか知らんけど。それがどうした」
「じゃああの子、あなたの言うことなら聞きますか。急いでるんです。早く、次に行きたくて……」
なにを言いたいのかはっきりさせない、曖昧な表現だ。チェシャ猫は、横にあった自販機に顔を向ける。
「あんた、コーヒーが好きっつったな」
それだけ言うと、彼は徐ろにコートから小銭を出して、ホットの缶コーヒーを買った。
チェシャ猫がコーヒーを、無言でずいっと差し出してくる。しかし瑠衣は受け取らず、虚ろな目で一方的に話を続けた。
「彼女がクラスメイトの家に行かないように、あなたから言い聞かせてもらえますか」
「理由は?」
「折角見つけたのに、折角いい感じになってきたのに、あの子が邪魔で上手くいかないから」
瑠衣の声が、雨音で霞む。俯く瑠衣を振り向き、チェシャ猫はしばし無言になった。瑠衣は拳を握りしめ、また大きな深呼吸をした。
「あの店の、あの人……。あんなに素晴らしい人を見つけたのに、このままでは先に進めないんです」
雨粒がザアアと、傘を叩いている。数秒の沈黙ののち、チェシャ猫が呟いた。
「随分焦ってんな。それを他人に口走るなんて、そんなにシロさんが気に入ったか」
瑠衣の漠然とした言葉の意味を、彼は理解していた。
「焦って口を割る辺り、あんた、個体名があるくせに意外と大したことないな。これ以上話しても、目新しい情報は出てこないか」
「なによ」
「家庭教師名乗ってるっていうから、相当知能が高い上物だと思ったんだけど……シロさんから聞いたら、別に勉強教えてないっていうし。『家庭教師』は、単に人んちに招き入れられるためのラベルだったわけだ」
「なに、よ……」
瑠衣は思わず、肩を強ばらせた。
「冬は寒いから厚着する、雨が降ったら傘を差す。飲み物は見て楽しむだけでなく口に入れる。あと代金は払え」
チェシャ猫の鋭い目が、瑠衣を見据え、離さない。
「人間社会に紛れ込むなら、もっと周りをよく見て上手く馴染め。そういう違和感から、俺たちみたいのにバレる」
カチャと、瑠衣の額に、硬いものが触れた。近すぎてよく見えず、理解に時間がかかった。
やがて、気づく。
額に突きつけられていたのは、拳銃だ。
「えっ」
頭の中が真っ白になった。
見間違えかと思ったのだが、たしかに拳銃である。硬い銃口がぴったり、額に当てられている。
「もう少し、人けのないところまで追い詰めたかったんだけど」
拳銃の主――チェシャ猫は、抑揚のない声で言った。
今、自分の隣にいる男が、拳銃を隠していた。咄嗟に瑠衣は傘を放り、拳銃から逃れ駆け出した。
チェシャ猫が舌打ちし、缶コーヒーをコートのポケットに突っ込む。
逃げなきゃ。
瑠衣の生存本能が、危険信号を出している。この男は、危険だ。瑠衣は弾かれたように、雨の中へと駆け出した。
道は傘を差す人々が往来し、いつもより狭く感じる。瑠衣はその間を縫い、濡れた体を人と人との間に押し込み、体当りし、無我夢中で走った。怒鳴られても、謝る余裕はなかった。
生命の危機を感じても、走っても、汗は流れない。代わりに大雨で顔が濡れて、それっぽくなる。全速力で走り続けようが、息が上がることはおろか、脚のふらつきさえない。
やがて立ち止まった瑠衣は、背後を振り向いた。背後には夜の雨の繁華街が佇むだけである。追ってくる者はいない。
あの男には「限界」がある。そんなものを撒くのは、自分には容易いことだった。
居酒屋から出てきた会社員風の中年が、傘を広げて去っていく。店員の挨拶が、雨音に霞んで聞こえた。
瑠衣は青い顔で、建物の隙間の狭い路地裏へと足を踏み入れる。
人がすれ違えないほど狭いこの道は、近隣の店が放置した廃材や、打ち捨てられたゴミ、古くなった酒瓶用のコンテナが雑然と散らばっていた。
狭い道を早足で突き進み、瑠衣は奥歯を噛んだ。
瑠衣は顔に滴る雨を腕で拭った。仄暗い裏通りは、繁華街のざわめきが壁を一枚挟んだかのように遠く聞こえる。
――パシャ。
ふいに、背後で水溜まりを踏む音が聞こえた。瑠衣の心臓が、ひゅっと竦む。
恐る恐る、後ろを振り向く。そして彼女はきゃっと、声にならない叫びを上げた。
「いつからそこに……」
喫茶店の店主の苦笑が、瑠衣の脳裏に蘇る。
『そうなんですよ。いつもああやって、気配もなくいつの間にか現れてる。あれじゃ食い逃げされても気づかないな』
闇に溶けて、気配を消して、音もなく現れる。いつの間にかそこにいる。
神出鬼没のそれは、まるで。
――チェシャ猫。
プシュッという空気の掠れる音と共に、瑠衣の額に感じたことのない痛みが走った。目の前に黒い飛沫が飛び散る。生温かいざらざらした砂が、顔に垂れてくる。しかしすぐに熱を奪われ、雨水に絡んで冷たく冷えていく。
目の前の青年は、瑠衣の額に拳銃を差し向けていた。もう片方の手には、缶コーヒー。
体の機能が全て、停止したようだった。
手も足も、動かない。視界が霞んで、目の前に立つ黒服の青年もぼやけていく。
「来世はもう少し、まともな生き物だといいな」
哀れむような言葉のわりに、彼の声には抑揚がない。
なにも分からなくなっていく頭で最後に認識したのは、彼の濡れた前髪から覗く、なんの感情もないような無表情だった。
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