音も気配もない男
「シロちゃんはね、下の名前、白と書いて『あきら』って読むの。だから愛称はシロちゃん」
カウンター席の椅子で脚をぷらぷらさせ、愛莉が笑う。カウンターの向こうの本人も、愛想よく微笑んでいた。
「子供の頃からこのあだ名だったからね、もう『シロ』はもうひとつの自分の名前のように思ってるよ」
時宮白、「シロ」と呼んでほしいと名乗る彼は、カウンター越しの瑠衣にそう話した。
「この店は不定期営業でして、普段は茶道家の仕事をしてます。ここも元々は、先代が営業していた抹茶の専門店だったんです。リノベーションする前の古い建物そのままでやってました」
カチャカチャと、茶器の音がする。愛莉と並んでカウンターの椅子に腰掛けて、瑠衣はシロの仕草を眺めている。
シロの手元から、ふわふわと白い湯気が立ち上る。
「しかしまあ、なにしろ客の入りが悪くて。このままじゃ店が潰れそうだった。僕はどうにかこの場所を守ろうと思って、こうしてきれいに改装したんですよ」
「素敵ですね。若い子が好みそうなコンセプトで」
瑠衣が言うと、シロは面映ゆげに照れ笑いした。
「ありがとうございます。とはいえまだまだ流行らない店なので、こんなに閑散としてます」
ほくほくと流れる湯気が、店内の空気にしっとりと溶けていく。少し苦味のある、穏やかな落ち着いた香りだ。
シロの声は漂う香りとよくマッチする、これまた落ち着いた声質だった。
「愛莉ちゃんのお友達の、先生だっけか。愛莉ちゃん、仲良しなんだね」
「うん。友達の家に遊びに行くと、先生がいるから。仲良くなっちゃった」
出会った経緯を語る愛莉に、シロがにこっと微笑む。それからその優しい眼差しを、瑠衣に向けた。
「愛莉ちゃんの仲良しさんなら、クリームたっぷりめにサービスしようかな」
「ねえシロちゃん、あたしもクリームたっぷりにして! あとね、チョコシロップもいっぱいがいいな!」
「はいはい」
カウンターで前のめりになる愛莉に頷き、シロは手際よくカップに茶を注ぐ。
愛莉は、「友人の家庭教師」という距離のある大人である瑠衣に対しても、同年代の友達のように接してくる。この店も、愛莉はクラスメイトに共有するような感覚で瑠衣に紹介してきた。
彼女から事前に聞いていたとおり、店主のシロは朗らかで穏やかな、まさに「温厚」を擬人化したような人物である。
彼ははたと、茶の支度を止めた。
「あっ、気が利かなくてすみません。上着やお荷物、お預かりしましょうか?」
シロがのんびり尋ねると、瑠衣でなく愛莉が自身のマフラーと鞄を突き出した。
「お願いしまーす」
「先生は?」
「え、と。私は大丈夫です」
シロの問いかけに、瑠衣は遠慮がちに首を振った。彼女に代わり、愛莉が言う。
「あのねシロちゃん、先生ったら風の子なんだよ。コートもマフラーもなしなの! びっくりだよね」
「へえ、こんなに寒いのに!」
シロが仰天する。瑠衣は苦笑いだけして、返事は濁した。シロがひとりで頷いている。
「すごいなあ。僕なんか寒くてカイロをたくさん貼ってるのに……。寒さに強いのって素晴らしいですね」
一連の仕草ののち、シロはすっと、瑠衣の前に赤と白のカード状の板を差し出した。ステンドグラスを思わせる太い主線に、ぱっきりとした色彩で塗り分けられた鶯の絵。花札だ。
そしてその札の上に、黒い丸い湯のみがトンと置かれる。
「お待たせしました。当店いち押しの、抹茶ラテです」
「わあ……!」
シロが差し出すそれを見て、瑠衣は本日何度目かの感嘆を洩らした。
柔らかな緑色にきめ細かいクリームの泡、その上に波打つように描かれるチョコレートのシロップ。市松模様をあしらったクッキーまで添えられている。
瑠衣はきらきらと目を輝かせた。愛莉が満足げに目を細める。
「えへへ、それがいちばんおすすめなんだ。先生はいつも缶コーヒー持ってるけど、たまにはこういうのもどう?」
「とってもかわいい。きれいね」
「でしょでしょ。それにおいしいんだよ」
愛莉が得意げに、カウンターテーブルに立てかけられていたメニューを書いたカードを手に取った。
「それとね、ほうじ茶のシフォンケーキもおいしいの。それから梨のタルトも」
愛莉が指さすカードを、瑠衣も覗き込む。カードに刻まれたメニューは、シロの手書きと思われる、整っていて尚且つ柔らかな丸みがある文字で書かれていた。
『和心茶房ありす』は、日本茶や国産の果物にこだわった喫茶店である。緑茶や抹茶、それに合う和菓子はもちろんのこと、店主がオリジナルで日本茶の洋風アレンジ、洋菓子メニューも充実している。
袴姿の店主、花札をあしらった茶托、赤く塗られた和紙の椿。洋の文化が入ってきたばかりの日本のような、独特の世界観の店だ。
愛莉の前にも同じ抹茶ラテを置き、シロは瑠衣に尋ねた。
「愛莉ちゃんと瑠衣先生、生徒さんであるお友達の家で会ったんですよね。先生がいらしたってことは、授業中だったんじゃ?」
それに、瑠衣より先に愛莉が答える。
「そうだけど、その子、今は具合悪くて勉強どころじゃないの。先生が顔だけ出して帰ろうとしたときに、ちょうどあたしが学校のプリント持ってきててね、それから三人で話すようになったんだー」
「ああ、じゃあ今は授業はしないで、生徒さんの様子だけ見に行ってらっしゃるんですね」
シロが納得する。それから愛莉に、ちょっと意地悪な笑みを見せる。
「愛莉ちゃんも、先生に勉強見てもらったら? 君、この間のテスト赤点だったって言ってたよね」
それを聞いて、愛莉は口元で傾けていた湯のみを止めた。
「それは……! 次、頑張るからいいの!」
「本当に? じゃあ次のテストで満点取れたら、ケーキたくさん作ってあげる」
「ほんと!? 頑張る!」
途端に、愛莉のやる気に火がついた。目を輝かす彼女は、くるっと顔を横に向けた。
「ねえ聞いた!? チェシャくん!」
「チェシャ?」
突然聞き慣れない名前が出てきて、瑠衣の顔に困惑の色が差す。愛莉は抹茶ラテを飲み干すと、勢いよく椅子を降りた。彼女がパタパタ駆けていくその方向を見て、瑠衣はぎょっと目を剥いた。
奥のテーブル席に、脚を組んで座る黒髪の男がいたのだ。
愛莉よりも少し歳上、大学生くらいの若い青年だ。だらりとした黒い長袖Tシャツは襟ぐりがだらしなく伸び、色の暗いジーパンもくたびれている。長い前髪の隙間からは、切れ長の覇気のない目が覗く。
瑠衣が固まるのを他所に、愛莉は無邪気に彼へと駆け寄っていく。
「チェシャくーん! 今日も最っ高にかっこいいね! ねえチェシャくん、あたしがテスト頑張ったらチェシャくんもご褒美くれる?」
「こっち来んな」
青年が眉を顰め、椅子から逃げようとする。だが、愛莉が飛びつく方が速い。
「くれるよね! 頂戴!」
「なんで俺が」
青年が鬱陶しげにあしらう。ぼそぼそと、朴訥とした話し方をする男だ。冷たくされても、愛莉は彼に飛びついて甘えていた。
「デートがいいな! ビスケットランド行こ! 今の時期のパレード、超かわいいの!」
瑠衣は口を半開きにしたまま、言葉を失っていた。
あの青年は、一体いつからそこにいたのだろう。瑠衣が愛莉と共に入店したときは、店の中は
絶句している瑠衣の耳に、シロの苦笑が届いた。
「うーん、やっぱだめか。扉の鈴、チェシャくん対策につけたんだけど。全然音がしなかった。もっと大きい鈴にしないと」
彼の声で我に返り、瑠衣はシロの方に顔を向ける。
「あの、彼は?」
「うちの常連さん。フリーターのチェシャ猫くん。もちろん本名じゃないけど、誰がつけたのか『チェシャ猫』って愛称が定着してるんですよ」
シロは苦笑いを浮かべつつ、新しくお茶の準備を始めた。瑠衣はしばしぽかんとして、再びチェシャ猫と愛莉の方を見た。愛莉がチェシャ猫にじゃれついて、チェシャ猫は嫌そうに身を仰け反らせている。
「チェシャ猫……」
「チェシャ猫」と聞いて瑠衣が思い浮かべたのは、当然、「不思議の国のアリス」に登場するチェシャ猫だった。ニヤニヤ笑いを浮かべ、その笑みだけ残して消えていく不思議な猫だ。
しかしそこにいる青年はニヤニヤ笑いとは到底結びつかない、気だるげな態度だ。あまりよく笑うタイプには見えない。
それにしても、と瑠衣は改めて思った。彼はいつ、店内に入ってきたのだろう。
「全く気づかなかった。いつからあそこに……」
瑠衣がつい素直を洩らすと、シロは茶の湯気の向こうで頷いた。
「そうなんですよ。いつもああやって、気配もなくいつの間にか現れてる。あれじゃ食い逃げされても気づかないな」
それから彼は、湯のみに注いだ紅茶を盆に載せて、カウンターを出てきた。
「愛莉ちゃんはすごいなあ、チェシャくんの気配に気づくんだから」
シロが茶を運ぶその先で、愛莉が椅子ごとチェシャ猫に抱きついている。
「チェシャくんがデート約束してくれたら、あたしハーバード大学合格しちゃう!」
「下らねえこと言ってないで勉強しろ」
ぎゃあぎゃあ騒ぐふたりに特に注意をするでもなく、シロはチェシャ猫のテーブルに湯のみを置いて、カウンターへと戻ってきた。
「愛莉ちゃん、明るくてすごくいい子なんだけど……勉強が苦手なのと、男を見る目がないのは、玉に瑕だよねえ」
シロはカウンターに肘を乗せて、小さくため息をついた。
「あんな見るからに甲斐性なしの男のどこがいいんだか……。心配だよ」
毒を吐く彼に、チェシャ猫に夢中だった愛莉が急に振り向いた。
「なによシロちゃん! チェシャくんはかっこいいよ! このだらしない服、猫背、死んだ目! 全てが推せる」
「それが趣味が悪いんだって」
シロが容赦なく言い切る。酷い言われのチェシャ猫だが、本人も否定するでもなく愛莉に抵抗していた。
「おいシロさん。そう思うんならこいつを俺から引き剥がしてくれ」
やがて愛莉の腕を振り払い、見事に彼女の腕から抜け出した。チェシャ猫は風のようにカウンターの前を横切り、店の外へと消えていく。
置き去りにされた愛莉も、負けじと彼の背中を追った。
「ノリが悪いんだから! 待ってー!」
彼女も店を飛び出していく。カウンター席の椅子の上には、鞄が置いてけぼりだ。シロがカウンターから身を乗り出す。
「愛莉ちゃーん、鞄忘れてる……まあ、すぐにまた来るよね」
彼は姿勢を戻し、改めて瑠衣に向き直った。
「さて、先生。愛莉ちゃんが帰ってくるまでの間、雑談でもします?」
静かな店内に、ほんのりと抹茶の香りが漂う。カウンターの向こうには、端正な顔立ちをした袴姿の青年。手元には、コロンとした形の湯のみに、甘やかな色をした抹茶ラテ。
ふいに、シロがそっと声をかけてきた。
「瑠衣先生。愛莉ちゃんのお友達で、先生の生徒さんという子、どんな様子なんですか?」
「あっ……はい」
反射的に応じた瑠衣の声は、妙に裏返った。シロは暇そうにカップを磨いている。
「体調が優れないというのは、精神的なものでしょうか。それとも、風邪を拗らせているとか」
「精神的なものですね。肉体も徐々に……弱ってきていますが」
返す声が、徐々に沈んでいく。瑠衣は目を泳がせ、抹茶ラテに視線を落とした。
シロがカップを拭く手を、一旦止める。瑠衣の表情を窺い、またキュッキュと布を動かした。
「愛莉ちゃん、その子に元気になってほしくて、週に一回くらい会いに行っているそうですね。そのたびに先生と鉢合わせているんですか?」
「そう、ですね」
瑠衣は抹茶ラテの柔らかな緑色を見つめ、自嘲的に笑った。
生徒の様子を見に、瑠衣は、指定の曜日以外も生徒の家を訪れている。愛莉は、学校を休んでいる生徒のためにプリントを運んできて、ついでに雑談をして、お菓子を食べて、気が向いたらゲームをしてと、楽しく過ごしている。
愛莉が遊びに来た翌日は、体調不良の生徒も少し具合が良くなる。
「愛莉ちゃんは、すごく強い子ですよね」
落ち着く抹茶の香りと、穏やかで静かな空間、それとシロの醸し出すまったりしたオーラのせいだろうか。瑠衣の口からぽろぽろと、本音が溢れ出した。
「愛莉ちゃんが近くにいると、どんなに弱っている子でも、まるで引っ張り上げられるかのように精神が回復するんです」
瑠衣は小さくため息をついた。胸の奥がむかむかする。
「なにか、特殊な能力でもあるみたいに」
「ふふっ。愛莉ちゃんは普通の女の子ですよ、多分」
シロの柔らかな声が、瑠衣の頭上から降ってくる。
と、そこへ、鈴がチリンと愛らしい音を奏でた。
「チェシャくん足速い……。見失った」
愛莉が戻ってきたのだ。彼女は瑠衣に駆け寄り、隣の椅子に飛び乗るようにして座った。
「なになに、先生、なんの話してたの?」
「なんでもない。さて、私、そろそろ行きます」
瑠衣は椅子から立ち上がった。
「また来ます」
「ええ、ぜひ」
シロが莞爾として微笑む。愛莉も瑠衣に手を振った。
「あたしはもうちょっとここにいる。先生、ばいばーい! 帰り道、気をつけてね。夕方から雨降るらしいから!」
「うん。さよなら愛莉ちゃん。またね」
瑠衣は鞄を肩に提げて、店を後にした。すごく満足だ。なにせ、あの店主が気に入った。
外へ出ると、風がひゅうっと吹き付けてきた。ふと空を見上げると、空がだいぶ黒く沈んでいる。愛莉が言っていたとおり、ひと雨来そうだ。
瑠衣はひとつ深呼吸をして、呟いた。
「次はあの人にしよう」
そして、瑠衣は曇天の街を歩き出した。
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