Act.1

ウサギ穴に真っ逆さま

 真冬の晴れ渡った空に、ちぎった綿のような雲が浮かんでいる。


「先生、こっちこっち」


 手招きするのは、さらさらのロングヘアを背中に下ろした少女。チョコレート色のマフラーがふわふわとたなびいて、チェック柄の制服のスカートから伸びた脚が、跳ねるように軽やかに駆けていく。元気のいい彼女を追いかけて走れば、ジャケットがふわりと翻る。

 それはよく晴れた、水曜日の午後。その家庭教師は、教え子の友人に連れられて、この店に訪れた。


「ここが愛莉ちゃんのおすすめのお店?」


「そう! かわいいでしょ」


『和心茶房ありす』。店の前に掲げられた木の看板には、雅な毛筆でそう刻まれていた。

 案内する女子高生――姫野愛莉は、店の前で白い息を吐いて笑ってみせた。

 

「ここの抹茶ラテ! すごくおいしいんだよ」


 有栖川瑠衣は、二十八歳のフリーランスの家庭教師である。

 今日は自身の生徒の友人である、愛莉に案内してもらって、この喫茶店を訪れていた。

 狭い路地にひっそりと建つその店、『和心茶房ありす』は、古い日本家屋のような外観の建物だった。古くはあるが汚くはない。どこか懐かしい、モダンとクラシックを同居させたような雰囲気である。

 愛莉が白い息を吐いて、ふふふっと花笑む。


「最近、先生ちょっとお疲れ気味だったでしょ。だからひと息ついてほしくって」


「そっか、ありがとう」


 人懐っこい彼女の心遣いに、瑠衣の胸はじんと熱くなった。

 ここのところ、受け持つ生徒が体調不良を訴えている。生徒の友人で、その家によく遊びにきていた愛莉は、この件で手を焼いている瑠衣の姿を見ているのだ。

 愛莉が店の扉を押し開ける。チリリンと、扉の上部に吊り下げられた鈴が鳴った。

 店の中へと入っていく愛莉に続いて、瑠衣も足を踏み入れる。

 同時に、瑠衣の口から感嘆のため息が洩れた。


「わあ……!」


 木造の温かみある店内に、ほんのりと香る茶葉の匂い。少し薄暗い空間を柔らかに照らす、丸い黄色い照明。四つのテーブル席と三つのカウンター席がちょんこりと集まる、狭い店だ。客はおらず、それどころか、カウンターの向こうにも誰もいない。


「あれ、お店開いてるのに留守。不用心だなあ。どこ行ったんだろ」


 愛莉がずんずんと店の奥へと突き進んでいく。彼女は瑠衣を振り向き、言った。


「あたし、ちょっとお店の裏を見てくる。テキトーに座って待ってて」


「分かった。よろしくね」


 瑠衣が頷くと、愛莉は店の外へと出ていった。彼女が姿を消すと、瑠衣は手近な席に腰を下ろそうとして、やめた。代わりに、遠慮がちに歩みを進め、店内を見回しはじめる。

 窓際に椿の花瓶が飾られている。赤い花かと思ったら、白い花弁に赤いペンキが厚めに塗られているではないか。どうして白い花を赤く塗るのか。赤い花がいいのなら、初めから赤い花を活けたらいいのに。

 瑠衣が不思議に思っていると、ふいに、背後でチリリンと鈴の音が響いた。


「あれっ、お客さんがいる! これはこれは失礼しました、いらっしゃいませ!」


 愛莉が戻ってきたのかと思いきや、物腰の柔らかい、男性の声だ。瑠衣は声の方に顔を向け、思わず目を見開いた。

 そこに立っていた男は、くすんだ空色をした、仕立てのいい袴姿をしていたのだ。襟の内側からはスタンドカラーのシャツが覗き、さながら書生のような出で立ちである。

 彼は瑠衣の方へ、のんびりと歩み寄ってきた。


「それ、不思議の国のアリスの、女王のバラをモチーフにしているんです」


 外から来た彼は、体にほのかな冷気を纏っていた。近くに来ると、さらさらの髪の隙間できらっと光る粒が見えた。左の耳に、金色のピアスが煌めいている。

 歳の頃は三十前後だろうか。すらりとした細身の青年で、口角が吊り上がった表情はどこかのほほんとしていて穏やかである。

 瑠衣はしばし、この男性のほんわかした雰囲気に当てられて、目をぱちくりさせていた。


「あ、アリスの……?」


「ほら、トランプの兵士が慌てて白いバラを赤く塗るシーン。ハートの女王は赤いバラが好きだから、間違えて白いバラを植えてしまったのがバレたら首を刎ねられちゃうんですよ。うちのはバラじゃなくて、椿だけど」


 彼は瑠衣の横に立ち、花瓶の椿にそっと触れた。


「これ、紙細工なんです。和紙でできています」


「えっ、これ作り物だったんですか? あんまり精巧だから、本物かと思いました」


 瑠衣が素直に驚くのを見て、袴の男は嬉しそうにはにかんだ。


「恐縮です。それ作ったの、なんと僕です」


 彼はそう言うと、紙の花にきれいな手で触れた。


「良くも悪くも、世の中には精巧に作られた偽物がたくさんあります。宝石や絵画、骨董品……」


 そして、透き通った瞳が、瑠衣に向く。


「人間も、ね」


「え? 人間の……偽物?」


 瑠衣は彼の瞳に射抜かれ、辿々しく繰り返した。

 と、そんなやりとりをぶった斬るように、鈴の音と甲高い声が飛んできた。


「あー! シロちゃん、いた!」


 外から戻ってきた愛莉である。彼女は転げる勢いで駆け込んできて、瑠衣と袴の男との間に割り込んだ。


「お、愛莉ちゃん。いらっしゃい」


「本当にマイペースなんだから。どこに行ってたの?」


「ごめんごめん。お客さん来なかったから、ちょっと裏の花壇の世話をしてた」


 特に悪びれない彼を、愛莉はじとっと睨む。


「ちょうど入れ違ったんだね。まあいいや、紹介するね」


 それから、笑顔に戻った表情を瑠衣に向けた。


「瑠衣先生、この人がシロちゃん。このお店の主人」


「そうだったんですね。初めまして」


 瑠衣が改めて会釈をすると、袴の男――シロちゃんと呼ばれた彼は、にっこりと微笑んだ。


「初めまして、瑠衣先生。僕は『和心茶房ありす』の店主、時宮ときみやと申します」

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