第2話 上野駅 現代
どのくらい時間が経ったのだろうか。やがて武はフラフラと立ち上がった。
腹はとても空いていたが、どこに行けば良いか、どうしたら良いか分からなかった。
だがここにはもういられないと思った。
武はひんやりと湿った上野駅の地下通路を歩き出した。
地下通路には武のように、行く場所の無い子供達が多く座り込んでいた。
武はそれを避けながら、何とか外に出た。
外はもう真っ暗になっており、電気の街灯が心細く灯っていた。
武はゆっくりと歩き出した。
少しでも早く上野駅から離れたかったが、あまりの空腹で中々、歩は進まなかった。
そして、武はそれから70年以上の間、上野駅に足を踏み入れることは無かった。
武は昭和、平成、そして令和の時代を必死に生きた。
今年で、88歳になった。
武は上野駅を後にした後、何とか生き延び、運良く篤志家の運営する児童養護施設に潜り込み、夜間中学校に通いながら、西葛西の酒屋で働き出した。
仕事は何度か変えたが、30代半ばで入った町工場で、旋盤工の技術を習得することが出来てからは、65歳を過ぎるまでずっとそこで働いた。
40歳を過ぎて、7歳年下の女性と知り合い、結婚した。
当時としては遅い結婚だったが、二人の間には二人の娘を授かった。
武は懸命に働き、娘二人を何とか大学まで行かせた。
二人の娘もやがて結婚し、武が80歳になった時、遅ればせながら初孫の顔を見ることが出来た。
初孫は男の子であり、名前を璃玖(りく)といった。
武は今年で、88歳になったが、年の割には健脚であり、何かと忙しい娘夫婦の替わりに、休日は孫の面倒を見ることがあった。
妻は3年前に亡くなっていた。
ある日曜日、武は娘夫婦に頼まれ、8歳になる孫の璃玖の面倒を丸一日見ることになった。
どこに行きたいか聞くと、璃玖は上野動物園のパンダが見たいと言った。
武はあの時以来、意識的に上野界隈を避けていたが、どうしても璃玖がパンダを見たいと言って聞かないので、しょうが無く上野動物園に行くことになった。
数十年振りに見た上野駅は、当時の面影をほとんど留めていなかった。
昔は薄暗く、どこもかしこも湿っていたのだが、今の上野駅は駅中がピカピカと光輝いていた。
武はその眩しさに圧倒されつつも、璃玖の小さい手をしっかりと掴み、何度か駅構内の案内図を見ながら、上野動物園に辿り着いた。
上野動物園は日曜日とあって、家族連れで混雑していた。
特にパンダは一番人気があるとのことで、1時間待ちだった。
璃玖は8歳にしてはとてもしっかりしており、待ち時間の間も、小さいサイズの動物図鑑のパンダのページを見て、「笹は栄養が少ないから、パンダって、一日中笹を食べているんだって」とか、「笹ばっか食べているから、フンもそんなに匂わないんだって」とか、パンダについて色々と武に教えてくれた。
武は微笑みながら、そんな璃玖を見つめていた。
やがて武と璃玖の順番がやって来た。
武は璃玖の手を引き、パンダ舎の前から中を覗き込んだ。
係員がしきりに「立ち止まらないで下さい。」と拡声器で叫んでいた。
パンダは奥の方に一匹おり、起き上がって笹を食べていた。
見学者用の通路から、パンダの座っている場所まで10メートル以上、距離があったが、白と黒の生き物が笹の山の真ん中に座っているのは見えた。
璃玖はこれだけで満足したようだった。
小一時間他の動物も見た後、二人はまた上野駅に戻った。
時間は13時を過ぎており、璃玖はお腹が空いたと言った。
何が食べたいか聞くと、ハンバーガーを食べたいとの事だったので、上野駅の中にある、全国チェーン店のハンバーガーショップに入った。
璃玖はおもちゃがついたハンバーガーセットを頼んだ。
サイドメニューはフライドポテト、飲み物はオレンジジュースにした。
武はハンバーガーはもちろん食べたことはあり、別に嫌いではないが、それほど空腹でなかったことから、紙コップに水を一杯貰った。
席に座り、璃玖は最初にフライドポテトを一つ食べた。
「美味しい。おじいちゃんも食べない?」と璃玖はフライドポテトを一本武にくれた。
「おじいちゃんはお腹空いていないから、璃玖が全部食べていいよ。」
「ありがとう。でもおじいちゃん、何も食べてないね。
じゃあ、ハンバーガーを少しあげるよ。」と璃玖はハンバーガーを少しちぎって、武にくれた。
「おじいちゃんはいいから、璃玖が全部食べなよ。」
「でもおじいちゃん、お腹空かないの?」
「おじいちゃんは食べ物があまりない時代に生きていたから、そんなにお腹空かないんだよ。だから気にしないで食べなさい。」
「うん、ありがとう。」
武は璃玖が人のことも気にする子供に育ってくれたことについて、とても嬉しく思った。
璃玖はオレンジジュースを飲んだ。
「美味しい。お母さん、あまりジュースは飲ませてくれないんだ。
喉渇いたって言っても、麦茶か牛乳飲みなさいって言われるの。」
「そうか、でも璃玖は成長期だから麦茶とか牛乳の方が身体に良いんだよ。今日は特別だよ。」
「うん、ありがとう。おじいちゃん。そうだ、おもちゃも見てみようっと。」と言って璃玖は、おまけのおもちゃのビニール袋を破いた。
袋の中からは、青い車のおもちゃが出てきた。
璃玖はスイッチを入れた。
するとヘッドライトが光った。
そして、プルバックすると、ゼンマイで車が走り出した。
同時にブルルルルという音が鳴った。
「ほう、今のおもちゃは良く出来ているな。」と武は、おもちゃを手に取ってみた。
おもちゃはプラスチック製で、おまけにしては立派な作りだった。
「さあ、さめないうちに食べなさい。」と武は璃玖に言った。
やがて、璃玖はハンバーガーとフライドポテトを食べ終わり、オレンジジュースを飲んだ。
そして名残惜しそうに、ハンバーガーの包み紙についたケチャップをなめた。
「美味しかったかい?」
「うん、とても美味しかったよ。ありがとう、お兄ちゃん。」
え?
武は聞き間違えたかと思った。
「今、何て言った?」
「え?、ありがとう。おじいちゃんって言ったんだよ。」
「そうか、そうだよな。」
武は一瞬、弟の次郎の声で、「お兄ちゃん」と言われたように聞こえたのだ。
もちろん、そんなわけない。
「じゃあ、行こうか。」武は璃玖の手を取って、立ち上がった。
そして店を出て、JRの改札に向けて歩きだそうとした。
その時、「お兄ちゃん、ありがとう。」と言う声がまた聞こえた。
武は振り返った。
後ろには壁があるだけで、誰もいなかった。
だが武にはこの声がしっかりと聞こえていた。
決して空耳なんかではない。
ずっと忘れていた。
いや、忘れようと記憶の中にしまい込んでいた、弟の声だった。
「おじいちゃん、どうしたの。」璃玖は、武を不思議そうに見上げた。
「何でもないよ。じゃあ、行こうか。」
「おじいちゃん、また今度食べさせてね。」
「そうだね。また、来ような。」
そうだ。来ようと思ったら、毎日でも来れる。
食べようと思ったら、毎日でも食べられる。
あの頃から考えると、そんな夢のような時代になったのだ。
武は改札を通る前に、もう一度振り返り、多くの人で賑わう上野駅のコンコースを見た。
そして帰路についた。
上野駅にて 青海啓輔 @aomik-suke
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