上野駅にて

青海啓輔

第1話 上野駅にて

「これ、とても美味しいね。兄ちゃんも食べてみなよ。」

 弟の次郎は、兄の武に白っぽくて細長い食べ物を差し出した。

 香ばしい匂いがしたが、これまで見たことが無い食べ物だった。

「僕はいいから、次郎が食べなよ。」

 武は不思議と腹が空いていなかった。


「ありがとう。兄ちゃん、これも美味しいよ。少しあげるよ。」と次郎は茶色の円形のパンに何か挟んでいる食べ物を少しちぎって、武にくれた。

「僕はいいから、次郎が全部食べていいよ。」

「ありがとう。本当に美味しい。この飲み物も甘くて美味しい。」と今度は白い入れ物に入った液体を飲みながら、次郎は言った。


 兄の武は11歳、弟の次郎は8歳だった。

 この日は何故かこれまで見たことの無いような、とても眩しい空間におり、足の長い机と椅子に二人向き合って座っていた。

 次郎はそれをとても美味しそうに食べ、武はそれを微笑んで、眺めていた。

 武は自分の分は注文せず、白い入れ物に水を一杯だけ貰って飲んでいた。

 次郎は今度は握り拳くらいの大きさのビニールの袋を破った。

「わあ、兄ちゃん、これ見て。車が光るんだよ。」と次郎はおまけの車の突起を押し、ライトを光らせた。

「凄いね。見て、こうすると走るんだよ。」と今度は車のおもちゃを机に置き、後ろに引いて手を離した。

 すると音を出しながら、おもちゃの車が走り出した。

「凄い。音まで出た。」

「面白いね。でも、さめないうちに早く食べなよ。」

「うん、そうだね。」と次郎はまた茶色の円形のパンに何かを挟んでいる食べ物にかぶりついた。

 

 やがて次郎は全て食べ終わった。

 名残惜しそうに、その食べ物を包んでいた紙をなめている次郎に「美味しかったかい?」と武は尋ねた。

「うん、とても美味しかった。これまで食べたものの中で、一番美味しかった。

 こんなのが毎日食べられる人は幸せだね。」

 武は答えた。

「そうだね。いつかそうなればいいね。」


 武が目を覚ました時、武に寄り添って隣で眠っていた次郎は何故か幸せそうに笑っていた。

 武はそれをじっと見つめていた。

 二人は父親が出征したので、母親と三人で東京の砂町に住んでいたが、あの夜焼け出され、母親とはぐれてしまった。

 武は次郎とはずっと手を繋いでおり、何とか荒川の河川敷に辿り着いたときは、街は真っ赤な火と煙に包まれていた。

 武は次郎の手を引き、母親の名を呼びながら歩き続けた。

 どのくらい歩いたのだろう。

 武と次郎は上野駅にて辿り着いていた。


 武の腹が大きく鳴った。

 腹減ったな。

 武は上野駅の隅にある通路の壁にもたれたまま天井を見上げた。

 腹が減っても、今日食べ物を得れる当てはない。

 武はため息をついた。

 その時、次郎が目を覚ました。

「あれ…、夢だったんだ…。」

 次郎の声は弱々しかった。

「何か良い夢見たのかい?」

「うん、凄く綺麗な場所で…、お兄ちゃんと一緒に…、見たこともない…美味しい食べ物を食べている夢を見たんだ…。」

「へえ、どんな食べ物だったんだい?」

「丸くてね…、フカフカのパンに…、美味しいお肉が挟まっているんだよ…。そして、キュウリみたいな野菜とかも…入っていて…、とても美味しかった。

 後ね…、ジャガイモだと思うんだけど…、しょっぱくて細長い食べ物も凄く美味しかった…。

 そしてね…、とても甘くて美味しい飲み物も飲んだんだよ…。」

「へえ、良かったね。」

 武は次郎も自分と同じような夢を見ていたことに驚いたが、口には出さなかった。

「うん…、夢の中なのにとても美味しかった…。

 そして、凄く面白い車のおもちゃで遊んだんだ…。

 小さいおもちゃなのに光って音が鳴るんだよ…。」

 そこでまた武の腹が鳴った。

「お兄ちゃん…、お腹が空いてるの…。」

「うん、次郎は空いてないのかい?」

「何でかな…、僕はお腹が空いてないや…。

 その代わりにまた眠くなっちゃった…。

 また寝るね…。またあの美味しい夢を見れると良いんだけど……。」

 そう言って、次郎は再びまぶたを閉じた。

 眠りについた次郎は、さっきと同じように幸せそうな顔していた。

 武も空腹を紛らわせようと、目を閉じた。

 だが武は空腹で眠れなかった。武はそれでも空腹を忘れようと、じっと目を閉じた。


 少しだけウトウトしたのだろうか。

 武は目を開けて、隣で眠る次郎の顔を見た。

 次郎は相変わらず、幸せそうな顔をしていた。

 だが、さっきと異なり、次郎の様子はおかしかった。

 微動だにしないのだ。

 武は痩せ細った次郎の身体を揺すった。

 次郎の手が力なく垂れた。

 そして次郎の体温はとても低くなっていた。

 次郎はさっきと異なり、もう二度と目を開けなかった。

 武は冷たくなった次郎の肩を抱き、長い間泣いた。


 

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