第2話 承

「おい、兄ちゃん。こんなところで死なれちゃワシも後味が悪いなぁ」

不意に聞こえた声に長政は酷く動揺した。全身の毛が逆立ち、欄干から飛び退いた。

「そんなに驚かんでもええやろ。ただのジジイじゃ」

長政が声のする方へ振り向くと、そこには齢80はいってるであろう、杖を持ち、腰の曲がった老人がいた。白眉でハゲ頭。鼻筋は通っていたが、純和風的な顔をしていて、一重まぶた。ただ、その瞳にははっきりと柔らかい光を纏っていた。クリーム色のダウンを着てクリーム色のズボンを履いていた。靴は明らかに安っぽいシューズを履いていた。肌の色は黄色でいかにも日本人だった。

「青年何しとるんじゃこんなところで。君はさてはあれか、暇なのか」

「いや、まあ。暇と言えば暇ですけど……」

長政はなんだかさっきまでの悲愴が吹っ飛んでしまって、キョトンとして答えた。

「君、将棋はできるか?ポーカーでもいいぞ」

「まあ一応できます」

「なら君うちにおいで。歩いて10分くらいじゃからそんなに遠くないでな。なに老人の暇つぶしにちと付き合ってくれ」

「はあ……」

結局、断りきれずに長政は得体の知れない貧乏そうな老人に着いていった。

この老人、歩くペースが早かった。杖をついていて腰が曲がってる割に、歩くペースが早い。長政は不思議に思いながらも急いで老人についていった。

橋を渡って商店街が並ぶ大通りから横道に入ると、閑静な住宅街になっていた。

高そうな住宅が立ち並ぶ一画に明らかに古めかしい、しかも小さな家があった。恐らくあそこだろうと思っていたら、ドンピシャり。そこは老人の家だった。野良猫がやたら多くて5、6匹戯れている。ガラス戸になっている玄関には鍵がなく、老人はそのままガラリと戸を開けた。

「なんもないけども上がってくれろ」

「お邪魔します……」

長政はかなり古風というよりはもう古ぼけてしまった家に上がった。電気をつけると蛍光灯がチラッ、チラッ、といった。

ほんとに何も無いな、と長政は思った。

畳が敷かれた床にちゃぶ台と小さなテレビと、そして、扇風機が置いてあった。新聞紙が隅っこの方で纏められていた。それ以外はなんにもない居間であった。


「そこに座っててくれ」

そう言って老人は奥の部屋に姿を消した。自分が汚い格好をしてるので、座るのを躊躇い、結局突っ立って待っていた長政を、

「兄ちゃん、なんで突っ立ってるんや?あぁ、風呂入るか?」

と言って、お茶を持ってきた老人はにこやかに笑った。結局、世話になることにした長政は、老人から髭剃りを貰うと風呂を拝借した。

長政には久しぶりの風呂だったから、それはもう生き返る心地であった。なにか、心の「ホコリ」というか、心を今まで一生懸命閉ざしていたことで凝り固まってどす黒くなって、黒くて固くて汚い汚れみたいなのも泡と湯と共に流れていったのである。


「お風呂ご馳走様です」

長政が長湯につい長湯に使ってしまったと思って申し訳なくしていると、老人はちゃぶ台1杯にビールを並べて既に出来上がっているようだった。

「おう!兄ちゃん!腹が減ったか?飯にしよう!ワシが作る飯は美味いからたんと食え」

ゆっくり立ち上がって少しよろめいた後、老人は奥の部屋にいって、座布団を取ってきた。長政はそれを受け取ると、テレビでも見ながら待っとれと言われて、座った。

なんでここまで優しくしてくれるんだろうか、長政にはよく分からなかった。これはもしかして、裏があるかもしれないとふと思ったのだけれど、見るからにズタボロの風体で最早死ぬしかないかとさえ思っていた自分になにか搾り取れるものがあるとは客観的に思えないのも事実だった。

あれこれ考えていると、いい匂いが立ち込めてきた。


「今夜はパーっとすき焼きにするぞい!」

老人が持ってきた土鍋の中には、見るからに美味しそうな肉や野菜たちが並んでいた。久しぶりのご馳走に思わず喉が鳴った長政は、しかし、申し訳なさそうに老人を見る。

「いや、青年、気にするな。ワシはこう見えても少しは蓄えはあるからの。まあ気にせず食べなさい」


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