第33話 湿地を歩く影
ある程度この湿原を歩いて回ってわかったことがある。
大気中に漂う霧、これは間違いなく有害だ。
この湿地に果樹が群生している場所があったのだが、たわわに実っていたであろう果実が一つ残らず腐り落ちており、木の葉も溶けたような状態で黄土色になっていた。
他にも、無残に腐り果てた花畑などもあった。健在であれば壮観だっただろうに、もはや見る影もない。
恐ろしい話だが、もしも忘我サロンで大金を用意して用心棒を頼んでいた場合、この毒ガスによるダメージを回復しきることができずに契約が終わっていたのでは?
充分ありうる話だ。無計画に頼まなくて良かった。たとえランディープであってもこの霧の影響はあっただろうから、いったんフィールドの様子見に来たのは英断だった。
環境ダメージ等の存在を鑑みると、用心棒を依頼する前にエリアの下見は必須だな。
パーティー攻略なら撤退すれば済む話だが、忘我サロンで仲間した用心棒は俺が回復代を負担しなくてはならない。
計画的に利用しなくては回復アイテムの消耗がとんでもないことになりそうだ。
偶然とはいえ、それに気づけて良かった。
しかし思うに、この黄土色のガスが発生したのは最近なのではないか?
元からこの湿地に充満していたのであれば、花も果樹も育たないと思うのだ。
地下水道のコウモリやネズミは、このガスから逃れるために地下水道に来ていたのではないだろうか。
俺の前に不審な人影が現れたのは、そんな予想を抱きながら探索していたときのことだ。
「ひとりでに動く鎧。新手か」
そいつは濃厚な霧の向こうから慎重な足取りで俺の前に姿を現した。
亜麻色の外套で体を覆った姿で、被ったフードの下には顔面を覆い隠す革と布の複合マスクが装着されている。
目元だけを透明なガラス質の窓で開けており、口元にはぶ厚いディスクを取り付けたそれはまさにガスマスク。
くぐもった声で、性別はわからない。
その手には細く長いレイピアを携えており、その先端をこちらに向けて構えていた。
直後、鋭い踏み込みと共にレイピアが突き出される。
咄嗟に躱せば足が滑る。俺は落ち着いてレイピアの切っ先を左手に持つ盾で逸らした。
そう、盾だ。
あの武器屋でおまけに購入したこの盾はエトナの怒りから免れ、まだ無事なまま俺の手元に残っていた。
回避がしにくいこの湿地では、その場で相手の攻撃を受け止められる盾の存在はとても役立ってくれていた。
一番安い値段で買った品だが、大活躍してくれている。
さあ、次の一撃が飛んでくるまえに反撃だ。
勢いよく体を動かすアクロバティックな飛び蹴りや回し蹴りはしない。
ぬかるんだ地面に足を取られて体勢を崩してしまうからだ。
腐れ纏いで斬りつけたいところだが、相手が喋っていたところからNPCの可能性もある。
毒が回ったら俺に治療する手段はないので、まだ剣は使わない。
選んだのは両足を地につけたままのタックル。蹴りと比べて威力は劣るが堅実な攻撃。
初めてレシーと戦ったときにも咄嗟に使った信頼のある攻撃だ。
相手はたかがタックル程度とはいえ、直撃して体勢を崩されるのを嫌ったのだろう。
ガスマスクは俺の反撃を素早く察知し素早い身のこなしで飛び退いた。
「うぁ!」
なので、派手に転んだ。
ああ、足元に気を付けないから。
体を地面に激しく打ち付け、その拍子に被っていたフードとガスマスクが外れる。
露わになったのは美しく大人びた美貌。
転倒して翻った長い金髪は、黄色い毒ガスの中に包まれてなお輝いて見えるほど華美だった。
見惚れるほど美しかった麗姿は、その直後に湿地の泥に塗れて台無しになったが。
醜態を晒されて気が抜けてしまったものの彼女との戦闘は未だ継続している。
彼女はマスクが外れたことに気づき、追撃を警戒してこちらを睨みつける。
すると、俺の注目は尋常の人間とは異なる鋭く尖った耳にいった。
「……エルフ?」
「……ほう。貴様、まだまともであったか」
素早く体を立て直し武器を構えたガスマスクの女は、俺の声を聞くと警戒を解いて武器を下ろしてくれた。
プレイヤーはまだこの湿地にはいないはずだから、俺の予想通りこの地にいるNPCといったところか。
他のプレイヤーを見つけても見た目で敵かどうか分からないとは良く思っていたが、他人から見た自分も例外ではないことを忘れていた。
しかし初対面のNPCと敵対状態から始まることがあるなんてな。
無言プレイを貫くようなプレイスタイルであれば、NPCだと気づかぬまま殺害してしまう恐れすらある。
おっかない話だ。友好的な態度を示すことを忘れてはならんな。いい教訓になった。
ところで、俺の疑問を訂正しなかったところから彼女はエルフで間違いないらしい。
露出した金髪と耳だけで判断した当てずっぽうだが、まさか正解だったとは。
「いきなり攻撃した非礼を詫びよう。だが貴様、いったいどこから来た?」
毅然とした態度で話すエルフだが、しなやかな身体と輝く金髪にはべっちょりと泥と草が付着しており、なんとも恰好がつかない。
ともあれ、敵対状態は完全に解除された様子。
俺としてもこれ以上彼女に攻撃する理由もないので、大人しく問いに答える。
「大鐘楼の地下がここと繋がっていた」
「顔を見せろ」
言われるがまま兜のバイザーを持ち上げる。
もちろん中は空洞。向こうからはがらんどうの中身が見えているはずだ。
「リビングアーマー。毒の影響がないのはそのためか」
「お前はここで何を?」
「故郷の森がこの霧に侵されようとしている。それを止めに来た」
では、近くにエルフの森があるのか。
この湿地の草木が腐ってしまったように、今も広がり続けるガスがエルフの森を滅ぼそうとしていると。
「お前の目的はこの湿地の探索だな?」
「そうだ」
「都合がいい。どうせマスクの寿命の近かった頃合いだ、エルフの森まで案内してやる」
「話が見えん」
落としたガスマスクを拾い上げながら、エルフがやや高圧的な口調で言う。
自信満々、これは名案だぞと言わんばかりの態度をエルフはしているが、流れがさっぱりわからん。
いったいなぜ俺がエルフの森に行くことになった?
まだ出会ったばかりなのにそんなことをされる理由もわからないし、湿地の探索も半端なまま終わってる。
向こうも斬りかかった相手をどうしてそんなすぐ故郷に誘えるのか。
「察しの悪い奴め。支援してやるからこの霧をどうにかしろと言っているのだ」
うーん高圧的。微妙に話が通じない調子といい、エルフって感じだ。
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