5.婚約者の少女


早朝の澄み渡る空気を剣が音を立てて切り裂く。毎朝修練場で剣を振るうのが彼の日課だった。一通り剣を振り終え、一度休憩を挟むために剣を下ろしたその時、彼を探す声が聞こえた。

 

「イリアス殿下!大変ですっ!まだ詳細は分かりませんが、王宮庭園の隅にシャルロッテ様が倒れていらっしゃったとたった今連絡が……!」


「シャルロッテが?……わかった、今行く」



イリアス・リヴェラ・オルフェウス。

透き通るような白い髪に、アクアマリンを埋め込んだような神秘的な瞳。誰もが目を惹きつけられるような美しい容姿を持つ、オルフェウス王国の第一王子。しかもその美しい容姿だけに留まらず、剣術、学問、魔法においても人並外れた才能を有しており、まさに完璧と呼ぶにふさわしい。


そんな彼には、二年前婚約した令嬢がいた。当時彼女はまだ六歳。当然だが恋愛から発展した婚約ではない。王家と代々この国の宰相を務めるメリアベリル侯爵家との繋がりを強くするために結ばれた、いわば政略結婚を前提とした婚約だ。


シャルロッテ・リィーン・メリアベリル。


彼女の評判は、正直いいものではない。

まず、この世界では全ての生き物が魔力を持っている。そこに多少の大小の差はあれど、全ての人間はそれを駆使して魔法を使う。しかし、シャルロッテは魔法が使えなかった。基礎魔法も、簡単な生活魔法すらも。排他的な貴族の中にはシャルロッテには魔力がない、魔力なしの欠陥品とまで呼ぶ者もいる。それに加え、彼女は身体が弱かった。そのくせに、何故か医者に見られるのを極端に嫌がった。


しかし、一番の問題は彼女が突発的に起こすヒステリーだった。訳のわからないことを大人たちに頼んでは、断られるたび感情的に叫びだす。いつしか狂乱令嬢と陰で囁かれるようにまでなるほどに。


『どうして私なんかと婚約をしたの⁉︎そんなものすぐに意味がなくなるのに!』


『なんとかしなきゃいけないの!時間がないのよ!』



 (シャルロッテは今意識不明ではなかったのか?少し前見舞いに行った時は、到底起き上がれるような状態ではなかったはずだけど……)


一応今は婚約者であるため、体調を崩し目を覚まさないというシャルロッテの見舞いに少し前に行ったが、その時には既にまだ生きているのが不思議なくらい衰弱しきっていた。


そんな彼女がどうやって、侯爵邸から王宮まで来たというのだろう。それも夜中に。王宮と侯爵邸はそこまで距離があるわけではないが、それは馬車を使う前提での話だ。まだ8歳の、しかも体調を著しく崩した少女が一人で来るにはあまりにも遠い。


足早にシャルロッテが今いるという部屋まで向かう。


「こちらです。宮廷医は現在こちらに向かっているようですが、まだ少しかかるそうです。どうなさいますか?」


「先に僕が様子を見るよ。到着したらすぐに通してくれ」


「かしこまりました」


シャルロッテが寝かされているベッドに近づく。


 ———!


 (これはまずいかもしれないな……。裸足で走ってきたのか?足の傷もひどいが、それよりもひどい熱だ)


メイドに指示を出し、清潔な布と水を用意させる。


 (僕にできることはこれくらいだが……)


土で汚れたシャルロッテの足を濡らした布で丁寧に拭う。


「はぁ……うぅ……」


 (随分とうなされているようだな。一体何があったんだろうか)



「……ごめ……私のせい……本当に……逃げ……」



シャルロッテの目から涙がこぼれ落ちる。


 (……!)


一通り汚れを拭き終わったところで、王宮医が到着した。


即座に治療を行うよう言い、自身は一度自らの部屋へ向かう。


いつもとはかなり違うシャルロッテの様子。そういえば、丁度一ヶ月前にも普段なら絶対に自分のところに来ないシャルロッテが真剣な面持ちでイリアスの元を訪ねてきたことがあった。


『イリアス殿下、私がこれからもし生死の境を彷徨うことになり、それでも万が一目を覚ましたら、これを私に渡してください』


『手紙……?シャルロッテがどうしてシャルロッテ自身に手紙を?』


『お願いします。これは殿下にしか頼めないことなのです。私が目を覚まさずそのまま死んだら、その手紙を燃やしてください。ただし、絶対に中を読まないでください』



自室に戻り、机の引き出しを開ける。

シャルロッテから預かった手紙を取り出し、そのまま先程の部屋へと戻る。


すでに王宮医が到着しているようで、シャルロッテの足の傷には丁寧に包帯が巻かれていた。シャルロッテのことを考慮して、女医を呼んでいる。

しかし、王宮医は真剣な表情だ。


「……シャルロッテに何か問題があるのか?」


「これはイリアス殿下。はい、それが……元から体の弱い方でしたが、この発熱の原因が何もわからないのです。詳しいことはシャルロッテ様が目を覚まされないことには……」


「無理矢理起こすこともできない今、起きるのを待つしかないのか」


「左様でございます」


「私が見ているよ。少し外で休んでいていい。少し気になることもあるしね」


イリアスはシャルロッテの枕元に寄ると、硬く絞った手ぬぐいをシャルロッテの額に乗せた。



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