その2

私の今の住処からは電車で5駅。

少し離れた住宅街の一角に、つくし児童館はある。

「おじゃましまーす!」

散らかし放題の職員机をすり抜けた奥にある来客用の机には、本当に来客用に使っているのか疑問なほど工作道具やら書類やらが積み重なっている。

ここに出入りする誰もが好き勝手に使っているその垣根の低さ、温かさが感じられて、私は好きだ。

「あら、久しぶりに顔を見せてくれたのは嬉しいんだけど……ほんとにいいの? こんなにもらっちゃって」

と、つくし児童館の館長・さやか先生が眉をハの字にしながら机の上を片付けている。

「ちょっと臨時収入があったからさ! 大丈夫大丈夫!」

と、私は両腕に下げたお菓子入りのビニール袋をドサドサと机に置きながら言った。

「だからってこんなに……」

「気にしないでいいんだって! 次いつ持って来れるかわかんないしね」

来月には今よりもっと児童館から遠い場所に引っ越すことになるから、さらに来られなくなる……とは言えない。

「仕事は順調? 体壊してない? あの有名なホーク食産で働いてるんじゃきっと忙しいんじゃないかなって……みんな心配してるのよ?」

「大丈夫大丈夫! まあどんな仕事も私にかかればチョロいもんよ!」

「まったくあなたはいつも大丈夫って言うけど……」

と、さやか先生が苦笑する。

子どもたちが学校から帰ってくると中々帰りづらくなるので、

「じゃ、用事あるから!」

と、私はそそくさと事務室から逃げだした。

これくらいでは、まだまだ、孤独だった私を助けてくれた恩返しには足りないくらい。もっと、もっといろんなことをしてあげないと――。


児童館の入り口を通り抜けようとした、その時――

「なるほどね……つくし児童館か。借金だらけの私設児童館兼こども食堂。このままじゃあ、いつまでもつか分かったもんじゃねえなぁ」

「なッ!」

私は驚き、声がしたほうを振り返る。

さっきのスナックで私に助け舟を出してくれた酔っ払いが、赤ら顔をニヤつかせたまま、私を見ている。

私を追いかけてきたの?

ストーカーか何か??

「……たしか……館長先生が訳アリの女なんだよな。お前はどこまで知ってるかは知らねえが……」

「おっさん……さっきはありがとう、って言いたいところだけど……なんの用? 借金取りか何か? ってか私追いかけてくるとかストーカー?」

「待て待てそんなカスみてえな人間と一緒にすんなや。俺の名前は強藤欲雅ごんどうほしまさ。職業は……ま、分かりやすく言えばフィクサーってとこかな」

「ふぃ……? なに、全然分かんないんだけど」

「おっと、お嬢ちゃんにはちょっと難しい言葉だったかな? まあ勝負の請負人、ってことよ」

「なんだか知らないけど……先生に手ぇ出すんなら、私だって容赦しないよ!」

と、児童館の入り口を塞ぐように、私はゴンドウに立ち向かう。

私とゴンドウの間に一陣の風が吹き――


ぐうううううううううう


その緊張を破るように、私の腹が大きく鳴った。

「ふ……ふふ……ガハハッハ!!!」

と、ゴンドウが破顔し、私は顔が熱くなるのを感じた。

「な、なにがおかしいのよ! 人間は腹が減るものでしょ?」

「たった一時間前に、あの量のメシを食ったのに、か?」

ゴンドウは笑いすぎて目に溜まった涙をガシガシと拭き、「今日の俺には神様がついてるぜ……おいお前、俺についてこい。腹いっぱい食わせてやる」

そんな誘いに乗れるわけがない。怪しすぎる。

「イヤだね。アンタみたいな怪しい奴に」

「金も欲しいだろ?」

「……何が言いたいのよ」

「なに、言葉通りだぜ」とゴンドウは片手を上げて箸を持つしぐさをする。「俺についてくりゃ、腹いっぱい食わせてやるし金だって手に入る。そういうこった。さっきお前がやったように、な」

「……」

口ぶりからすれば、私がまだ知らないような穴場的な大食いメニューを紹介してくれるのかもしれない。賞金があるんだったら猶更――。

私は少し迷ったが、目の前の男のガリガリでクソひ弱そうな容姿と、それから自分の空腹具合を確認したあと、

「……分かったわ。けどもし変なところ連れて行こうとしたらブッ飛ばすからね」

と、ゴンドウに拳を突き出した。

「よしよし……」と、その拳にまったく動じない様子で、ゴンドウは歩き出す。「んじゃまあ、ついて来な」

と、私は彼の小さな背中を追いかけた。


* * *


「……ここって……なんのお店?」

私が連れてこられたのは、巨大な地下空間に設けられた格闘場のような場所。

空間の中央には金網で厳重に囲われた八角形のリング。多くのスポットライトで明るく照らされ、中心には2組の机と椅子が2メートルほど間を開けて並べられている。

アリーナ席が360度囲んでおり、私たちもその一角からリングを見下ろしていた。

周りには、その静けさからは想像できないほど多くの人間たちが不気味に蠢いていた。高そうなスーツやドレスを身に纏った連中で、自分の場違いな服装にちょっと引け目を感じる。

「安心しろ、あとで服貸してやるから」

「……ってか、ほんとにここでご飯食べれるの?」

「あー、そうだなァ……今日はなんだっけな、回転寿司だったかァ?」

と、とぼけてゴンドウが言うが、

「そんなわけないでしょ! ここどう見たって地下格闘場よ! こんなとこでお腹がいっぱいになるわけない!!」

「ウソじゃねえって。ほら、見てみろ」

会場内にサイレンが短く鳴り、リングに十字の割れ目が入る。その暗闇より、まごうことない、回転寿司のレーンがズイズイとせりあがってくる。

「なッ……」

レーンはスルスルと動き出し、寿司の乗らないコンベアがまるで蛇の亡霊かのように静かに回り出した。

静かだったアリーナ席がざわつきだし、皆手元のタブレットを熱心に眺めてだした。

絶句する私に向かって、ゴンドウがヒヒヒと笑って酒臭い息を吹きかける。

「……ビビったろ? ここは司法の目が届かない地下格闘場……世の中のどんな大食いよりも優れたフードファイターたちが勝利を目指して戦う血塗られたリングなのさ」

「そ、そんなバカげた話が……」

「ファイターたちは勝者には莫大なファイトマネーが約束されている。そしてここでの勝負は……一晩で莫大な現金が動く、非合法な賭博としても利用されている」

ゴンドウはそう言うと、スタスタと闘技場を後にする。

「ちょ、ちょっとどこいくの?」

「オイオイオイここまで来てどこ行くのはねえだろ」

彼は暗い通路の途中で立ち止まり、私のほうを振り返る。

さっきまではただの酔っ払いにしか見えなかったしょぼくれた目が、肉食獣のように暗闇で光を放っている。

「お前は今から、あのリングに入って闘う」

謎の迫力に気圧されて、私はゴンドウについて歩く。

「お前には今日の第一試合に出てもらう。なに、緊張はしなくていい。ただ腹いっぱいになるまで食えばいい、それだけの話だ」

「第一試合って! いきなりとか無理だって!」

「お前のあの食いっぷりなら、少なくとも観客の目は楽しませられる」

私はただ、おなか一杯ご飯が食べられればそれで良いだけなんだけど。


私たちは小さな控室に入る。

この先に、あの勝負の食卓が待ち受けている。

控室内には衣装ラックがあり、そこにいくつか服は用意されている。さっき言ってた通り、どれを着ても良いらしい。しかも、今日着た服はくれるらしい! 太っ腹!!

でも……なかなか決まらない。なにせ今まで服を選ぶなんてしたことがないから。

「うーん……うーーん……」

「オイ早くしろ、スタンバイまで時間がねえんだ! ったく、これだから貧乏人はよ……」

と、衝立の向こうからゴンドウにせっつかれる。

「貧乏人で悪かったわね!」

私は勢いに任せて、真っ白なシャツを選んだ。

一番無難な服だ。

「お……」と、ゴンドウは着替えた私をマジマジと見る。

「似合ってなくて悪かったわね、どうせ私はセンスのない貧乏人よ」

「お前……それは……いや、なんでもない。ま、せいぜいその白い服を汚さないようにな」

彼は皺だらけのジャケットの裾をビッと引っ張ってから、

「さあ……何もかも思う存分、食って食って、食いまくって来やがれ」

と言い、会場へのドアを開けた。

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