アルプトラム Ⅱ ―管理者の夢―

 がたりと体勢が崩れかけ、男は飛び起きた。

 どうやらイスからずり落ちそうになっていたみたいだ。咄嗟に背もたれを掴んだおかげで、転倒はまぬがれたようだった。


 見回すと知らない場所。知らない部屋。

 同時に寝ぼけ眼に飛び込んできたものに言葉を失う。 


 ……人間の、手…?


 自分の腕が、冷たい合金でできたアームが、血の通った人間の腕になっていた。


 腕を回してみたり、部屋の電球に透かしてみたり。じっとすると微かに脈打っているのがわかる。


―――サナの手とはちょっと違うな。


 この自分のものではない自分の手は大きくごつごつとしていて、たまに工場を訪ねてくる土に汚れた男たちを思い出させる。

 そう、サナの血色の良い小さな手とは―――


 サナ……。

 はっとして、ようやくさっきの出来事を思い出す。自分が人間になっていることに驚いていたせいか、まったく頭から忘れていた。


 そもそも何故、自分が人間になっているのかがわからない。ひとり考え込んでいると、部屋のドアががちゃりと開かれる。


「寝てたのか? ほら、さっさと行くぞ」

 黒い髭をたくわえた大柄の男が部屋に入ってきて、エイトの腕を引っ張る。

「え、ちょっ、僕は…」

 エイトの言葉は耳に入っていないようで、ぐいぐいと圧倒的な力で連れていかれる。

 その力に逆らえず仕方なく髭男の後ろについていく。


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「……着いたな」


 途中に何人かの男と合流し、この小屋にたどり着く。家の前まで来たときに、ちょうど産声が小屋の中から聞こえてきた。

「しかもタイミングもばっちしだ」

 髭男は無造作に玄関を開け放つ。

 小屋から悲鳴があがり、産婆らしき者があたふたと玄関から逃げ出す。

「やっと産んだか」

 髭男は低い声で奥のベッドに半身を起こした女性と対峙する。

「なんでここが……っ」

 女性の腕の中には、白い布にくるまれた赤ん坊が抱かれている。

「困るんだよなぁ。商品を持ち逃げされちゃぁ」

 捕らえろ、と髭男が命令すると連れだって後ろの男たちが女性を押さえにかかる。

「やめて! お願いっ その子だけは…その子だけはっ……」

「上からの命令なんでね」

 女性の悲痛な叫びにも関わらず、男は容赦なく女性の腕から赤ん坊をもぎ取ろうとする。


「お前も、ちゃんと捕まえとけ」

 髭男にそう命令されると、ないはずの回路が回る音がした。僕は人間には逆らえない。そうプログラムされていたから。


「わか、りました…」

「やめて……お願いだから………」


 これが間違っていることなのか、エイトにはわからない。ただ、命令されたからしているだけ。

 だが、この女性が苦しんでいるのを見ると居たたまれなくなるのはどうしてか。


 最後まで抵抗をみせた女性だが、結局は髭男に赤ん坊をぶんどられてしまった。

 白布の赤ん坊に目がとらえられる。


 ふとその男に連れ去られる赤ん坊に見覚えがあったような気がした。


 ………ナ…


 がちりと鉄のぶつかり合う音が部屋に響く。歯車が回り始めていた。途端に辺りが雨に滲んだ絵のようにぼやけてしまう。


 存在していたはずのものが、ぐにゃりと異なるものに変形し、何がなんだかわからなくなる。


 霧のように視界が覆われ、ほとんど何も見えない。ぼんやりとした影がごちゃごちゃと蠢き、悲鳴にも似た轟音とともに世界が閉じていく。


 その流れに逆らうことができずにそのまま意識が遠のいていく。


 最後に見えたのは、一輪の虚空に咲く真っ赤なバラだった。



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 押し流された意識が、夢の湖畔に打ち上げられる。

 ゆっくりと眼を開けると見慣れた少女が湖の真ん中にこちらに背を向けて立っていた。


「サナ…!」

 そう呼び掛けると、少女がこちらを振り返る。やっと会えた喜びで水に濡れるのも構わず歩み寄る。


「いや! 来ないで!」

 突然の拒否に思わず口から言葉が逃げ出す。髪から水がぴちゃりと滴った。彼女はなおも捲し立てる。


「あなたも、わたしのママを取りに来たの……? みんな……みんな、悪いヒトなんでしょ!!」


―――違う…僕はただ……

 好きでやったんじゃない。そう、僕は悪くない。


「みんな、みんな大キライ…」


―――僕が…ヒトだから?


 自分の手のひらを見る。

 うちに血の流れる生きた手―――。


「みんな、いなくなっちゃえばいいんだ。……そうだ…そうしよう」

 つらりと冷気を纏った風が巻き起こる。


「サナ、待って!」

「うるさいっ!」

 両耳を押え、彼女の周りがさざ波たつ。

 必死に踏んばるも暴風に耐えきれずに虚空へと吹き飛ばされる。周囲の闇が体を溶かしていく。


「サ……ナ…」


 そして、演算機が再起動を始めた。

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