香具等坂あやかし横町喋々譚~理系大学生の静かなる日常

塵ヌルヲ

第1話 たぬきときつね

 もう桜は散っている。寒さも和らぎ少し暖かくなってきた季節。「入学式」と墨の文字が並ぶ立て看板の前では、スーツを着た人たちが入れ代わり立ち代わり写真を撮っている。この大学では大きな武道会館を貸し切って入学式や卒業式などの行事を行うらしく、大学からは少し離れた場所だが大勢の人が集まっていた。

 学校の特徴上、ここにいる人は全て理系の人間だ。自分は学部生ではないので出る必要はなかったが、送付されてきた資料に案内が入っていたのでどんなものなのか見に来てみた。この理系しかいない一種独特な大学に、この春から編入する。

 このあたりは昔の江戸ではとても栄えていた場所だ。場所で言うならば山手線の囲む中央に位置している。地方から出てきた自分としては、こんな場所でこれから生きていけるのかいささか不安である。


 受け取る資料があるため、大学への道を歩く。木々の茂る建物、少し急な坂道。

 このあたりは勾配が激しい場所がいくつかあり、いつの時代だったかは忘れたが、この高みから品川の海に紀寄港する船が見えたり、遠くの富士山が見えたりしたらしい。歩いているとそのような歴史を感じさせる町名をいくつか目にした。

 大学の所在地は神楽坂。なんとも風光明媚な名前である。しかし、この大学に通うものでそのような印象を受ける人間はごく少数なのだと思う。その証拠に大学から出てきた人間の八割は眼鏡をかけており、そのうちの六割は今や絶滅危惧種なのではないかと思われるチェックのネルシャツを装備に選んでいる。つまり眼鏡及びネルシャツの装備を選んでいる者が四十八パーセントも居る。ほぼ半数である。シャツやジャケットを着ている者もいるが、全員漏れなく目が濁っている。何かに追われているようだ。白衣を着たままの者もいる。大学の案内図に従って道を進むと、脇の喫煙所では目の濁った連中が何を話すでもなく煙を吐き出していた。

 いくつか乱立する番号の記された建物の中から学生課の位置するビルを探し、要件を告げると、思いのほかスムーズに必要な資料を手渡された。履修する科目に応じて、九号館二階にある生協で教科書を購入するよう告げられる。購入は履修科目を決めてからでいいだろう。編入先の研究室に挨拶に行くのはまた後日ということになっている。今日は教授が出張でいないらしい。

 資料を手に道に出ると、神楽坂の方から買い物袋を提げた老婆が歩いてきた。その脇を向かいの建物から出て来た学生の集団は、気にすることもなく坂の方へ歩いていく。びっくりするくらい、町中に学校が溶け込んでいる。学校と街との境目がわからないまま、花屋のある角に出た。左右に走る二車線の道路。この通りが神楽坂だ。特に信号のあるところまで行かずとも、車の往来の途絶えたときに人々は道路を渡ってゆく、そんなに幅も広くないことと、どちらかというと人間の方が優勢な通りだからだろう。自分もそれに倣って、坂の上の方に向かいながら、道を渡る。観光客と思しき人々が、坂道を上へ下へと行き交う。すぐそこに大学があるのに、不思議な雰囲気だ。


 そういえば、時刻はとうに昼時を過ぎている。飲食店には事欠かない場所ではあるが、あまり高すぎる店にも入れない。大通りにはチェーンの定食屋のような店もあるが、その間に老舗の割烹のような佇まいの店が立ち並び、店を選ぶのだけでも一苦労である。

ふと、ビルとビルの隙間に陰になるように小さな脇道が伸びているのを見つけ、少し裏の方にも店があるかもしれないと思い立ち、細い路地に入った。ビルの隙間は日陰になっていたが、少し歩くと道を遮るように左右に走る別の細い坂道があった。神楽坂と平行に走っているようだ。その途中には階段があり、そこだけ異様に日当たりがよく、手すりのステンレスが輝いで見えた。暖かそうだな…などと思いながら、その階段の方に向かい、手すりを掴んだ。ふと足元を見ると黒い塊が動いた。

「うわっ!」

 もぞ、とうごめいた塊の正体は黒猫だった。黒猫は顔をもたげてじっとこちらを見つめると、「ニャァ」と一言発して体を起こし、坂の下の方に身軽に歩いて行った。

そうだ、猫もいると雑誌で読んだような気もする…ぼんやり階段に一歩足をかけると眩暈に襲われたような気がした。

「!」

 はっと足元を見るが、しっかりと一段目の階段を踏みしめている。気のせいか。そのまま、階段を上ろうとすると、不意に甘いだしの香りが鼻をかすめた。

振り向くと、「うどん」と書かれた暖簾がかかっている。先ほどは気付かなかったが、突然身体が空腹を思い出したように、腹がぐぅ、と鳴った。うどんならば、それほど値の張ることはないだろう。階段を下りてだしの匂いの立ち込める店の引き戸をカラカラと引いた。


「すみません。」

「ん?兄ちゃん…なんだい?」

「あ、営業終わってます?」

 仄暗い店内には誰もいない。厨房からは白い煙と温かい匂いがするので、食事はさせてもらえそうだが、店主の気分次第では閉めるところだったのかもしれない。

「いんや、暇してたから一服しようかと思ってたとこさぁ。どうぞ。」

 手を向けられた、白木造りのカウンターに座る。端にはテーブル席に並べられていたのであろう、楊枝や七味の瓶などが整列している。その一つ隣の席に腰を下ろし、店主と思しき女性から渡された、硬いプラスチックの板に入れられたメニューを見る。

 いくつかの名称が並んでいる。きつね、海老天、わかめ、肉、月見、かけ…

 無意識にメニューを端から端まで目で追っていたが、地元では必ず一番上に存在すると言っても過言ではないごぼ天の文字は見つからない。そうだった。東京に出て来たのだった。諦めて、一番上に掲げてあるきつねを頼んだ。東京なのに、きつねが一番上にあるのか…きつねと言えば関西のような気もするが。

「きつね、一杯ね。あいよ。」

 店内を見回すうちに、すぐにきつねうどんが出てきた。

「うちのは揚げから自家製、しっかり出汁で炊いてるから、旨いよ。兄ちゃん、どこかから出てきたんだね。」

 突然この辺の人間じゃないということを確定的な言葉で指摘され驚いたが、田舎っぽいという意味かもしれない。

「はい、大学に編入で…。」

「へぇ、じゃ学生は鱈腹食わにゃあね。ほい、食った食った。ちょっと裏で一服してるから、客が来たら呼んどくれ。」

 店主は初対面の自分を店番にして、目の前にほかほかと湯気を上げるうどんをトン、と置き店の奥に引っ込んでしまった。

 つるっと白い柔肌をしならせるうどんの麺を箸でがっしと掴み、勢いよく口に吸いこむ。おいしい。揚げはここで炊いていると言っていた通り、厨房の奥に大きな銅鍋があり、中からぐつぐつと甘辛い醤油と出汁の匂いが漏れ出てくる。うどんは製麺所から仕入れているのか、一玉にまとめられた生麺が木の箱に綺麗に整列している。

 厨房の脇には大きな緑色や褐色の一升瓶が並んだ冷蔵庫のような扉がある。カウンターの脇には並んだ宇治色の布が貼られたメニューがいくつも重ねられている。夜の営業は居酒屋か何かなのだろう。


「おうい、妖狐いねぇのか?」

 暫くすると外から恰幅の良い、ずんぐりとした男が入ってきた。くすんだ黄色がかった茶色の着物に白いたすきをかけている。肌の色は浅黒く、一見すると大きな茶釜のように見える。

「あ、お姉さんなら奥に…」

「おっと、客がいたのか。すまねぇな。」

「ったく、あいつ客をほっぽって煙草たぁ良かないぜ。」

 大きな男は俺の方を向いて言った。

「ん?兄ちゃん学生か?どうしてこんなとこにいる。」

「え?…いや、昼飯を…。」

 どういうことだろうか。学生街に学生がいてはおかしいのか。

「ほう…。」

 男は俺の方を向き、顔に似合わずキラキラと光をはじく丸い目玉でじろっと見ると、にやりと笑った。

「座敷の旦那のとこの子ぉかい。」

「え?」

 何のことだろうか。この男は誰かと自分を間違えているのかもしれない。それとも…

「おっと、うどんが冷めちまうぜ、食いねぇ食いねぇ。」

 空腹とうどんの食欲をそそる匂いに、ほんの少し感じた違和感はすぐに消え去ってしまった。

 暫くして顔を上げると、今までその辺りに座っていた男は姿を消していた。店主に何か用事があったのではなかったのだろうか。しかし、とりあえず今はこの旨いうどんを最高に旨いうちに腹に収めてしまおう、と勢いよく箸を進めた。一心不乱にうどんを啜っていると、いつの間にか店の奥から戻って来た店主が満足気に眺めていた。カウンターの向こうから2つ並んだいなり寿司がうどんの脇に添えられる。

「おまけ。なぁ、あんた…」

 俺はほとんど麺の残っていない椀を両手で持って、汁を飲みながら、店主の方をちらりと見た。

「わっちにゃ分かるよ、アンタはこれから色々なことに巻き込まれることになる。」

 椀を置いて、つい声が出る。

「え?」

「わっちはすこぉし先のことが見えるんでね、目が良いのさ。まぁ、ガンバレよ若人。」

「は、はぁ…。」

 よく分からないが、これからの学生生活を激励されたのか?俺は些か不信感を覚えたが、その不安はおまけに出されたいなり寿司と共に飲み込んだ。

「あ、あの、さっき真ん丸と…いやがっしりとした男の人が…」

「あぁ、田貫野郎か?狸みたいに体がまぁるかっただろう。」

「…え、え。まぁ。」

「ま、あいつは暇人だからまたすぐ来るさ。気にしなくていいよ。」

「そうですか…あ、ごちそうさまでした。」

「おう、千円からなぁ。はい、お釣り。」

 椅子から立ち上がると、店主が見送りに客席側に出てきた。上には割烹着のような白い服を着ていて分からなかったが、裾から覗く衣服は金糸が織り込まれた艶やかな着物だ。それに、先ほどは湯気で顔がよく見えなかったが、色白のつややかな肌に赤い紅を引いた切れ長の美人である。自分より少し上くらいの年齢だろうと推察されるが、女性の年齢について思案しても当たったためしがないので、間違っているかもしれない。しかしそれ以上に特徴的なのが、女性にしては違和感を感じる程に背が高いことだ。すらりと手足が長く、髪はまとめているが長い黄金色である。

「また、おいで。ここは、夜は日本酒の居酒屋だから。あ、来たときに階段を通ったろ?帰るときは逆に出るんだよ。でないと、迷っちまうから。」

 店主は不思議なことを言って、ひらひらと手を振った。


 言われたように階段のところまで来た。階段の途中で少し目眩がしたような気がした。もう一段上の石段に足を下ろす。目眩は収まっている。周囲を見回すと、そもそも馴染みのある光景ではないので確証は持てないが、違和感を覚えた。

「あれ…?まぁ気のせいか。」

 この後は今後世話になる下宿先へ行くことになっている。ポケットから地図の書かれたメモを取り出して歩き出した。

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香具等坂あやかし横町喋々譚~理系大学生の静かなる日常 塵ヌルヲ @chilly_n6w

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