第8話
私はよくお母さんがヒステリーを起こして怒る時言われる言葉があって、それが本当の事かもしれないといつも思った。
こんなに怒られるのは、どうしてだろうと考えた。
最初は私だけだったけど、弟も大きくなるにつれ怒られた。
私は2歳からピアノを習っていたそうだ、お母さんが昔からピアノをやりたかったんだそうだ。私じゃない、お母さんなのに。
それなのに、私が産まれた時女の子だったから、ピアノを習わせようと、ピアノを自分の貯めたお金で買ったと言っていた。
私はピアノが嫌いだ。
とくに、お母さんが聞いている所で弾くのが怖かった。
だから、新しい宿題が出るとまちがえるから、自分で考えた曲を適当に弾いてお母さんに聴かせていた。
指の練習は大好きで、音階や同じことの繰り返しが大好きだった。ピアノの先生は、小学校の時から、高校まで同じ先生だった。それより前に幼稚園の時も、その先生の妹さんに習っていた時もあったみたいだけど、小学校より前の先生の顔とか、全く覚えていない。
ピアノで弾いた曲も覚えていない。
その長く教えてくれた先生は、たくさん指の練習や音階の練習、カデンツァ、中学からソルフェージュも教えてくれた。それは、とっても楽しかった、先生はオペラをやっていて、何度か観に行ったが、あまり覚えていない。先生は津波で亡くなってしまった。
曲を弾くのが嫌いだった。
自分の弾きたい曲じゃないからだと思う。
適当に弾く時は楽しかった。その時はいつもお母さんが上手いねって、台所で夕飯の支度をしながら言ってくれた。
お母さんは、ピアノの練習をしないと凄く怒った。
私がピアノを習いたいのではなくて、お母さんがピアノを習いたかったから、私が代わりに習わせられていた、今でもそう思う。
だから、東日本大地震後に家を見に行った時、ピアノは裏を見せて水に浮かんでいた。ただの木の板のようだった。
何故だか少し、良かったと思った。
もう、そのピアノは何年も弾いてなかったけど。そのお母さんのピアノがなくなって良かった。
怒る時は、必ずこう言うのだ「あんたは、橋の下で拾ってきたんだから」と怒られている時は、その言葉しか聞き取れない、最後に言われるのは「左の耳から聞いて、右の耳から聞き流して、ちゃんと聞きなさい。わかった、言いたい事があるなら言え」と。
こんなお母さんに小さい子供が何を言えるのだろう、私はいつも、ごめんなさい、ごめんなさいと言って、泣いていた。そうすると、「泣けばいいと思って。」といってもっと怒られたり、ゲンコツをされたり、その時によって色々変わる。
何で怒られてるのかは、忘れたが、弟が凄く殴られて、蹴飛ばされた時があって、お腹を蹴飛ばされて、苦しがって倒れたら。
最初は「嘘だろー、ほら起きろっ?」って言って、でも、弟は苦しがって、それでお母さんもハッとして大丈夫とやっと怒るのはやめた。
弟は少しそのままだったが我慢して、しばらくお腹を抑えて苦しい顔をしていた。
子供の私は、泣いてみてるしかなかった。
怒られるのは、私と弟が橋の下で拾われたからだと、本当に思うようになった。
でも、その後しばらくしてお父さんが、他の女の人と、出て行った。凄い借金を残して、お母さんは、あまり帰ってこないお父さんに怒りたかったけど、
いないから私と弟に怒っていたと思う。
だから、しょうがない。そう思う。
だけど、今は連絡を取っていない、お母さんと妹は何か私に頼ってくると言えば良いのか、やらせてくる。
どう言っていいのか、わからないけど。
私は人に尽くすのが好きというか、頼まれるとなんでもしてあげてしまうのだ。
頼まれなくても、これをしてあげなきゃと思う。
そう、高校を卒業してすぐ就職、いつも家計簿をつけてたお母さんが、お金がない、お金がないといっていた。
私はカードでおかずを買ったり、妹に必要な物を買ったり、誕生日やお祝い事をしてあげたり、もちろん自分の物は自分で買うのだけれど。
田舎に住んでいたから、お母さんの勧めで免許をとって、車を買ってそれも私がローンを組んで、そのカードを回すのに、夜も寝ないでカラオケスナックで働いたりした。
お母さんも私が働くまでは、昼間も夜も働いていた時期があったけど。
それなのに、お母さんは、心配したフリをして、私が働いた後は、自分は昼の事務職をして、そこの所長と時々旅行に行ったりしていた。
小さい頃もしかして、何でもやれる様にとお母さんがそう育てたのかなと、今になって思い返す。
お母さんが、お茶飲みに近所に行く時は、家の掃除機、ダスキンを2階までやらされ、お風呂掃除、玄関掃除、庭の草取り。
お母さんは料理も苦手なので料理もやっていた。
そういえば、家族全員のお弁当も作っていた。
私は何でもやれと言われた。
言われなくても、やっていた。
言われるのが嫌だったし、怒られるのを考えると先にやっていた方が良いからだ。
帰ってきたら指でほこりを確かめて、ここが残っている、まだ、ここが汚いと罵られ、お父さんが居なくなった時から、弟と新聞配達をさせられた。
それも、お父さんが居ないから、働くのは当たり前だと私は思っていた。
お父さんが居なくなってすぐだったけど、妹を妊娠していた。
今考えるとお父さんがあまり帰ってこないのに、いつ妊娠したのだろうとか色々考える。
そういえば、離婚した後も50万円位の洋服を買っていたし、小さい頃からデパートに行くのが大好きだった。
お母さんは、昔、裕福だったから、お嬢様育ちと自分の結婚してからのギャップを直ぐには、受け入れられないし、お金が間に合わなかった時は、よくおばあちゃんにお小遣いをもらっていた。
私の成人式はお母さんの友達のパーマやさんの着物を借りて着せられたが、妹の成人式は100万円もする着物を仕立てていた。
そういえば、妹は掃除もやらされてないし、庭の草取りもやらなかったなぁ…。
私と弟は、橋の下で拾われて、妹は結婚はしなかったけど、誰か他の人の子供なのかなと今は思う。
お父さんの子供だから、お母さんは置いて行かれた私と弟を憎んでいたのかな。
でも、お父さんが、生きていた時は、帰ってきて一緒になりたいと言っていたけど、もうお父さんは死んじゃったから。
それは、お父さんが可哀想とも少し思った。
お父さんはバンドマンで、カッコよくて、お母さんが惚れ込んで、おばあちゃんとおじいちゃんの反対を押し切って結婚したんだって言ってた。
お父さんは、金遣いの荒いお母さんが、嫌で外で麻雀をするようになって、借金を作って、いなくなっちゃったんだけど。
原因はお母さんにもあったと思う。
私もお母さんと離れたから、やっとあなたが怖いと思えるようになってきた。
私は、何となくまだ小さいままだと自分で思う時がある。
あなたは、私を四緑星だからいつまでも少女のままなんだよと、占いめいたことを言ってたけれど、
あなたが、そう育てたのではとも思う。
そして、妹が最後に私に言った言葉は「金の切れ目は縁の切れ目」と言ってきた。
それから連絡は妹ともとっていない。
私は何の意味かわからなかったが、私の子供達の方が私より怒っていた。
弟も、母と妹と連絡は取っていない。
でも、結婚して2人の子供と奥さんと奥さんのお母さんと暮らしている。
私が幼児虐待を許さないのは、もしかして自分が受けてきたことだからだろうか。
私があなたから受けたことは、幼児虐待なのだろうか。
そんな事はもう、どうでもいいのだが、幼児虐待を受けている時は、本人はまだ小さいし、悪い事をしたから怒られると思ってるから、怒られる事は当たり前、自分が悪いのだと思い込む。
そして、自分を身体の中に閉じ込める。
自分は誰なのか、どれなのか、本当に何重人格もの、存在を持っているのかもしれない。
私は多重人格になった虐待を受けた本なども読んでいたが、もしかして自分がそうなのかなと今は思う。
よく、普通に生活してきたなと思うがもしかして、私は普通ではないのか?
自分で自分を分析できたのも、あなたから距離を置いたからだと思う。
時々メールが来ていたけど、前はメールを返さなきゃ、返さなきゃと思う自分がいたけど、今は、無視出来る様になってきた。
少し気になる時もあるが、思い出さない様にしている。自分が自分でいる事が、自分を大切にする事。
それがたぶん、1番大切な事だからと、これを書きながら気づいてきた。
精神科に行ったりすると、自分の産まれてから今までを、話しさせられたりするのは、これなのかと思った。
でも、私なんて気づいたのが今だとすると、物凄く昔の事も思い出さないと、その幼児虐待や多重人格は先生でも聞き出せないし、多分忘れていて思い出せないのではないかとおもうのだが。
たまたま、私は少しずつだけど昔の自分の日記を書ける事にありがたかったと思っている。
ノートになど書いたら、途中でやめてしまうかもしれなかった、カクヨムで書いていて良かったと。
子供と孫に支えられながら、私は、今人生の折り返し地点にいる。
それから、私の小説を読んでくれている皆さん、そして東京の彼にも支えられている。
ありがとうございます。
これからも、書くことを続けたい。
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