第5話

私のお母さんは、何やら宗教に入っておりまして、私は昔から、お経を読んだり、夏休みには修行という練成会でお泊まり会もしていた。元旦参り、節分会、涅槃会、春にはお釈迦様のお誕生日4月8日の花まつりにはお釈迦様に甘茶をかけ、お彼岸供養、お盆供養、浄土会や、その宗教のお祝い事のたびに参加していた。

着物を着たり、踊りを舞ったり、ボランティアでユニセフ募金をしたり、夢ポッケと言ってアフリカなどの発展途上国への文房具やお手紙のプレゼントを送ったり、毛布を集めて送ったりの手伝いをほとんど毎週やっていた。

夏の読経供養の修行では、大きい声で南無妙法蓮華を何度も何度も叫ばされて、泣き崩れている人がいたりしたけど、その時は何だろうと私は思った。

なんだか涙を流さなかったり、悩み事を話せなかったりする人は、それは修行出来てないみたいな事も言われて、とても考えた事も思い出した。

そこは、人それぞれ違うし、何か悩みはないのかといつも聞かれるが、悩みと思っている事はなかったので、わざわざみんなで丸くなって、話す事も無理矢理なかった。

私は仙台に育ったがその宗教の新しい道場ができる時、その宗教を作った創設者が来ることが決まった。

何故だか私がその土地に植える記念樹を受け取る代表に選ばれて(誕生日が同じだったからといことだと思ったが)会長先生からその植物を受け取って、握手をしてくださった。笑顔ととても大きな手だったのを思い出す。

お母さんとは、毎月の御命日に当たる日も学校が休みの日はそこの教会と呼ぶ所に行っていたし、お当番と言ってお掃除と仏様のお供物を変えたり、日に3度読経をする日が地区で回って来て、お掃除をして、それのお供えを変えるお手伝いや、お掃除してくださる方のご飯を作ったり、お経を読んだり放送をしたりと、色々な事が出来て楽しかったのを覚えている。

でも、時々そこにはほとんど大人しかお当番には来ていなかったので、子供の私で良いのかと思った。御命日には大聖堂に沢山の人が集まりお経を読んだり、放送をするのは緊張すると言って、何度も入り方の練習や読み方の練習、ドキドキすると言っていた人の事を思い出した。

読経が終わると、その道場の協会長さんがお説法というお話をしてくれる。お経は毛穴や空気からも入って浄化されるといわれている。その説法や法座という丸くなって相談がある人もない人も、一言話す支部のあつまりがその後ある。それを取り仕切るのが支部長さん。その中の小さい地区を仕切るのが主任さんと言った。

その法座では相談して、気持ちが晴れたり、泣いて解決する事もあるんだと、色々な人の話を毎回お母さんの隣で聞いていた。

よく、お母さんは毎回近所の人、会社の人、また道で出会った人まで何人も連れていった。

教会に来る前にお母さんは悩みを聞いてあげていたが、その宗教の偉いまとめる役の人の主任さんとか支部長さんにはならずに、みんなといつも、同じで隣に座ってるお母さんを私はいいと思っていた。

お母さんも私もその宗教に入っていると誰にでも話せる人だった。宗教の教団に入っていると、変な人と思われたり、誘われるとか、無理矢理連れていかれるとか、色んな装飾品を買わされるなんて思っている人もいるみたいだが、全然そんな事はなかった。

お経もお経本は待っていて見てるだけでも良いし、持ってるだけでもよかった。だって、字の読めない人は読めないし、初めてお経本を見た人も読めない。私だってお母さんが読め読めと言って無理矢理読んだわけでもない。なぜ最初に読んだのかは忘れたけど、子供なのに毎日まるでピアノの練習の様に、いやピアノの練習よりもきっとお経は読んでいた。でも、子供なので私の読んでいるのは、短くまとめてある青巻(あおかん)という物で、その他に長い法華三部経というのがあったがそれは、何度か寒中読誦修行で読んだことがあった。

お経を読むのは嫌いではなかった、お線香の香りも嫌いではないし、ロウソクの炎が毎回違う燃え方やロウの垂れ方が龍の様になったり、他の形になるのが不思議でそれを見たくて唱えていたのかもしれない。

何かあった時や、怖い時、お願いがある時などは南無妙法蓮華と唱えてしまう私がいる。

「みんな健康で安全に暮らせますように、世界中が平和になりますように」とのお願いが私は多かった。

朝は、お水とお茶とご飯を備えて、夜は寝る前に子供達も今日も一日ありがとうございました。明日も健康で安全に暮らせます様に、南無妙法蓮華と唱えていた。

お母さんがいうには、南無妙法蓮華を唱えたからと言ってお願いを叶えてもらう物でもないと言っていたが、それを言いながら願ってしまうのは、私だけでは無いと思う。

怖い時や霊を感じたときや守って欲しい時などは特に、南無妙法蓮華と唱えてしまう。

子供達にも、教えているわけでは無いが、怖い時、悪い事があった時などは、心の中で唱えているみたいだ。それは、とても良い事だと自分でも思うし、皆さんも唱えたら心が落ち着くことがあると思う。

宗教にはいっているからといって、誰も偉くないし、そんなのはへんだと思っていたからただ、読んでいるだけだった。

何か、不幸があったり、困った事があったり、身体が悪かったりするお家の家に行っては、ご先祖の供養でお経をあげにお母さんについていっては、私も読んでいた。

子供の私には、何が何だかわからないが、お経を読むのが好きだったし、文字を声にして読むことが好きだった。

宗教の集まりというのは、良い所と悪い所があると思う。

でも、悩んでいたり、困っていると、もう誰にでもいいからすがりつきたくて、頼ってしまう、どうにかしてくれない人にも頼ってしまいがちなのが人間なのではないか。

でも、その人々の拠り所であって、そこがお寺さんでも、宗教の門でも、神社さんでも、占師でも何も変わりはない、お金をかけても、お金をかけなくても、それでその方が生きられるなら、すがるのは何でも良いのではないかと私は思う。

ずっとお経を時々しか読んでなくてまた、最近毎日読み出した。それは、自分が体の調子が悪いからなのだ。

私は偉い人でも、凄い人でもない、出来の悪い人なので、何にも知らない。

始めるのも、決めるのも、読むのも、読まないのも、やるのも、やらないのも自分で決めるのが一番いいと思っている。

決められない時には、誰かに決めてもらうのもあるが、それにすがると決めるのは、やっぱり自分なのだから。

人を恨んだりは、いけないことなんですよね、それを選んだのは自分なので。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る