4話
下界の争いが、鎮まりの気配を見せた。
それは唐突な風の流れで、夜の住人たちの多くも無関心ではなかった。しかし当然ながらその事に関与するわけでもなく、夜はまた変わらぬ温度で更けていった。
柵がないベランダは、まるで空と繋がっているようである。
当然ながら椅子もなく、床に直接座り込む影はこじんまりと小さなものだった。
横顔を隠すのは、闇に逆らわない黒のフードローブ。そこから唯一覗く白い手が、一冊の本を開き持っている。
「・・・」
丁寧な動きで頁を捲る指先が、小さく揺れた。僅かに身を乗り出して、数階斜め下にコウモリの姿を見つける。
彼は何かを見ているようだった。
仕事中だろうかと見つめていると、その視線がこちらを捉える。一瞬だけ彷徨ったところを見ると、誰かがいると知覚するより先に、無意識のまま顔を向けてしまった、といったところだろう。
そもそも死に神に気配はないため、彼の勘の良さには素直に感嘆する。
彼は顔を顰めたかと思うと、人差し指を唇の前で立てた。当然邪魔をするつもりはないので、死に神はそっと微笑んで元の場所に戻り、また本へと目を落とした。
「…。すみません、気が付きませんでした」
いつ自分の横に来たのだろうと、死に神は本を閉じる。
「お疲れ様です」
そう言って微笑む彼女に、コウモリは溜息をついた。
「随分と…」
ゆったり構えていると言いかけて、辞めた。よく考えれば、常時の事だ。
本を脇に置いて立ち上がり、指を胸の高さに上げる。蝶が一羽、何処からともなく現れて留まった。
仕事を知らせるその蝶は、二、三度翅を動かして指から離れていく。
「今夜は仕事がないようです」
コウモリさんも、休んで行きませんか?と問いかけ、そしてそのまま言葉を続ける。
「あわよくばお話相手に」
「そっちが本音だろう」
「否定は致しません」
言葉の掛け合いを楽しむように、くすくすと笑いながら。
お話相手にされるつもりは毛頭なかったが、彼女が珍しく本を読んでいたことは気になった。コウモリの視線を追って、死に神は口を開く。
「小説なんです。吸血鬼と、人間の」
吸血鬼の男性と、人間の女性の恋愛。彼自身およそ手にしない部類だが、内容は当然知っていた。
何故ならそれは、太古の昔からある「実話」だから。
しかしそれを彼女が読むということには、少なからず興味が湧いた。
「やはり分かり合うのは、難しいことなのでしょうか」
昼は昼、夜は夜。その垣根を超えることは、今尚禁忌とされている。
それはコウモリの知識においても相違はなく、昼の住人に至っては、そもそも夜の住人の存在を知らない。
それでも何かの悪戯のように、何百年に一度、このような出来事は起こり得る。
「他者が、口を出す問題ではない」
周りを巻き込まない限り、それもまた、一つの選択だと。
風が吹いて、コウモリは気付いた。
死に神がその話に自分自身を、言うなれば彼女を慕った人間を重ねていることに。
今まで続く、この長い下界の争いの、最初の火種が生まれた頃だった。
その時はまだ、人間に対して何の情も無かったはずだ。しかし今の死に神であれば…自分を慕う人間の前で、無関心でいられないだろう。
彼女も薄々、気が付いているはずだ。
例えば誰かを助けようとして、自分自身の存在が危うくなるとしても。
口を出す問題ではないと自分で言っておきながら、それを想像すると感じる、喉の奥が焼けるような気分の悪さは何だろう。
コウモリは帽子を外し、柱に背を預けて腕を組む。ちょうど彼女に仕事の話はあったので、すぐに立ち去る気はなかった。濡れた匂いに目を細める。明日はおそらく雨だ。
死に神もまた、夜の空気を味わうようにゆっくりと口を開いた。
「…人間の女性は"選択"を後悔しなかったのでしょうか」
コウモリでさえ、その答えは知らない。誰にも分かり得ない問いだから、ただ夜の闇に溶かしただけ。
コウモリは柱から背を離す。
「最も苦しむのは往々にして、当事者じゃない」
律儀に言葉が返ってきたこと、その思いもよらなかった内容に、死に神は目を瞬かせて考えた。
コウモリとて、自分の口からそのような言葉が出てくるとは思っていなかった。
ただの知識だと、自分に弁明する。
「…もしコウモリさんが、」
ぽつりと、彼女の声。
「貴方が選ぶことならきっと、熟考の末の判断なのでしょうけれど、それが貴方を傷付けることなら…私は悲しいと思います」
「…は」
「そういう、ことですか?」
動きを停止した彼と、視線を合わせる。
彼の愕きの表情について計り知ることはできなかったが、当たらずとも遠からずであれば良いなと思った。
一段と強い風が吹き、死に神はフードを外した。翻る黒衣は、まるで空に広がる波紋のようで。
暫くして、コウモリは目を伏せた。
「それは、あんたにとっては特定の対象に向けられている感情ではない」
何故なら彼女は、万物に対して平等な神だから。
それは彼女自身もよく分かっていたけれど。
「…私は、…」
恐怖や孤独に追い込まれてしまった者たちに、死に神はよくこの言葉を伝える。
目の前の彼には必要ない。自分の道を見失うことなど、ないだろうから。
それでも気がつけば、死に神はそう口にしていた。
「…貴方を大切に想っています」
言葉にしてしまえばそれは、すとんと腑に落ちるものがあった。
相手を肯定するための言葉だと、思っていた。しかしそれが、自分で自分を肯定する言葉でもあるいうことを、初めて知った。
彼女の言葉は、問いかけるでもない、求めるでもない、星空を美しいというのと同じ声色だと頭で理解している。
それでも。
「すみません、怒らせるつもりでは」
「怒っていない」
まだ仕事の話をしていないというのに、どうやって切り出せというのだ。
到底向き合うことが出来ない表情で、背を向けたまま困惑を噛み殺す。
混じり気のない言葉はやはり、良くも悪くも神のものであった。
しかし死に神の、生き物と同じような感情は持ち合わせていないというその事実自体が、もしかしたら。
そのほろ苦い微酔を知るのは、夜だけ。
死に神とコウモリ 縡月(ことづき) @remococo
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