3話
しばらく歩いたあと、死に神は立ち止まりもう一度振り返った。
どうやら錯覚でも偶然でもないらしい。ゆっくりとフードを外して髪を耳にかける。
「…何か御用ですか?」
囁くような声はか細く、珍しいことに戸惑いが前面に表れていた。相手は答える代わりに、尻尾を振って小さく鳴いた。
「それは犬じゃない」
仕事中に足止めを食らった彼の表情は渋い。
まだ日が沈み切ったばかりという早い時間。片手に持った書類を抱え直し、コウモリは呆れたような声を出した。
一階建ての屋根の端に、死に神が立っている。彼女の足元にいるのは、犬ではない。
「狼だ」
街灯のてっぺんにかろうじて足の爪先を乗せ、彼は翼を止めている。死に神は首を傾げて、その生き物を見下ろした。
「…。オオカミって、もっとこう」
「子供に決まってるだろう」
「まぁ」
声色に明るさが混じった。彼女は座り込むと、狼の頭にゆっくり触れる。
「小さな時は、こんなに愛らしいのですね」
ふんわりと柔らかい毛が手を包む。温かい。
「それなら腑に落ちました」
コウモリのように人のような姿をもつ者が「夜の住人」であるならば、それは「夜の動物」とでも言うのだろう。
成体となる頃には、その9割以上が「夜の住人」の僕となる。
夜の動物は、寿命が長く意思疎通もできる。そして、死に神を怖れない。
犬は夜の動物にはいないのだが、狼は昼夜どちらにも存在する。死に神は安心してその生き物に触れた。
一方、腑に落ちないのはコウモリである。
夜の生き物であるにしても、死に神である彼女に懐くなど前代未聞だ。成体よりも好奇心が旺盛なのだろうか、はたまた鈍感なのか。そんな考えを巡らせているとはつゆ知らず、死に神はふわり、狼を抱き上げる。
「迷子でしょうか?」
「放っておいたら何とかなる」
しかし彼女は心配げに表情を曇らせたまま、腕の中の生き物を見つめる。狼は顔を上げ、彼女の頬に鼻先をすり寄せた。
呼び止められた時点で、予想をしていなかったわけではない。やはりというべき状況に、コウモリは顔を歪めると、自らの襟足に手をやりながら深過ぎる溜息をついた。
「…、夜中まで待て」
まだ仕事がある、とぼやく。
「良いんですか?」
「その依頼のつもりで呼び止めたんだろう」
実際その通りではあるが、仕事を選ぶ彼と命令を下さない彼女の間で、決定権は基本コウモリにある。
珍しく、対価を交渉する前に示した了承。死に神が柔らかく表情を崩すと、彼は渋い顔のままに翼を広げた。
知識を最も効率良くもたらすものは、好奇心だと思っている。故に、興味が向かぬ上に必要のない事には時間を割かない。
それを毎回覆す、彼女の依頼。
神の戯れと言えばそれまでだろう。
「…そんな場所にあったのですか」
依頼していた答えが分かり、死に神は腕の中の狼に優しく声をかけた。
「帰りましょうか」
狼の帰り道は、偶然すれ違った狐が知っていた。コウモリの取引は労力に応じているため、今回は対価を請求できそうもない。
この小さな森を抜けた場所だと伝えた上で、分かりきった問いを呟いた。
「どうするんだ」
「勿論、連れて行きます」
「…」
「えぇ、歩きます。鏡を使っての移動は、この子を連れて行けませんし」
コウモリの視線から言わんとしていることを察し、死に神は唇に柔らかい笑みを浮かべる。
「ご一緒に、夜の散歩でもどうですか?」
彼女が軽口を言い、彼があしらう。それがいつものやり取りだ。
しかし今日はその流れすら面倒になったのか、コウモリは無言のまま踵を返してしまう。笑いを堪えながら、その背中に御礼を言おうと死に神は口を開いた。
「…貸、一つ」
それを遮るように、彼は一瞬だけ振り返った。
それが軽口に応じてくれた言葉だと気付いた時には、彼は森へと進み入るところだった。
夜の動物には、帰る場所がある。
空間、といったほうが近いのかもしれない。そしてその入口は、常に場所を変える。
「澄んだ静かな水面に似ていますよね」
水の中にある物が、とてもはっきりと見えることがある。しかし途中には水面という境が存在し、伸ばした手は確実に違う空間の中に入ってしまうのだ。
空間の境も、それに似たようなものだ。その表現に、コウモリは暫く考えたあと小さく鼻で笑った。
「昼の奴が迷い込んだら、溺れるだろうな」
「夜の子がこうして迷い込む事は、度々あるのですけれど」
ついてくる狼の子供を見下ろし、微笑む。
「この時期は、境が緩くなる」
「先日、昼の方々が仮装したりお祭をされていましたものね」
夜と昼が混ざる日。この子もきっと、それに乗じてしまったのだろう。
そんな話をしているうちに、目印の木が見えてきた。
死に神はその下で腰を落とし、最後に狼の頭を撫でる。
「…」
狼は少し名残惜しげに彼女を見上げる。ありがとうございます、と小さく口にした死に神を、コウモリは静かに待った。
馴染みの空気に耳を立て、駆け出した姿をゆっくりと見送る。
彼女が立ち上がり木に触れると、一瞬騒ついた音のあと、成長を止めていた花が枯れ落ちた。
「次に会うときは、狼男さんと一緒かもしれませんね」
木から手を離す。コウモリは同意をする前に、話題を変えた。
「…あんたは、」
きょとんと僅かに目を見開く表情は、どことなくあどけなさすら覚える。
「
動物だけではない。
神は「夜の住人」を遣いにすることが出来る。それなのに、死に神はそれをしない。
「貴方がたのことを、そんな風に見たことはありません」
彼女は微笑んだ。
それでも仲間や友人など、関係に名前を付けることも叶わない。
「…その割には、使いが荒い」
「ふふ、すみません」
きっと、自然と互いがそこにいる距離感を大切にしているから。
だから彼も、言わなかった。
今宵の風。月の燈。
そんなことをしなくても、今の彼女はきっと孤独にならない。
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