2話
「…実を言うと、怖いのです」
そう言って、夜風に目を細める。
コウモリは視線を向け、首を傾げた。
「あんたに怖いものなんてあるわけがない」
「薄々気付いてはいましたが、貴方の辞書に『私への敬意』の文字はありませんね?」
彼は若干一段高い足場に立って、街を見下ろしていた。
そこは時計台と空の境。今宵は風も穏やかで、地上の暖かさがここまで昇ってくるかのようだった。
「それではお願いします」
「・・・」
両手をこちらに伸ばしている死に神を見下ろし彼は溜息をついた。
しかしそれ以外に思い付く方法はなく、暫し考えた挙句、身を屈めてやる。
躊躇いなく首に回される腕に、少しは遠慮を覚えろと言いたくなった。しかしいかんせん、相手は神だ。時間外労働の言葉など、瞬殺で捩じ伏せられて今に至る。
諦めたコウモリはその腰に片腕だけを回して、時計台を蹴った。
「…は?」
話は一刻前に遡る。
多忙を極めて長らく姿を見せなかった彼女は、突然、前触れもなく現れた。
冗談に付き合わせるなと顔を歪めるも、死に神は逆に、驚いた顔をした。
「貴方みたいな翼もないのですから、飛べる道理がないでしょう?」
鏡などの媒体を使って移動はできても、空は飛べないのだと言い出す。
それはコウモリの知識と矛盾していて。
「宙にいるところは何度も見ているが?」
「えぇ、宙には立てますよ?何なら歩けます」
全く話が掴めない。
眉を顰めるコウモリに、死に神はどう説明したものかと考えながら小さく笑った。
「飛ぶと一瞬の距離でも、歩くと大変なんですよ。地上で言う山登りのようなものです。流石に無理です」
そこで漸く彼女の言いたいことが理解できた。
理解はできたのだが。
「あの辺りまでお願いします、コウモリさん」
いつもと全く違う趣旨の指令に、彼は思わず言葉を詰まらせた。
「…」
ある程度の位置まで上昇し、コウモリは手を離した。
「いつも、こんなに高い所にいるんですね」
コウモリにとっては見慣れた景色を、死に神は珍しそうに見回す。
「…で、怖いと言いながらここに来た理由は」
「えぇ、やっぱり苦手です」
落ちたこともないのにどうしてでしょうね、と独りごちる。
「話を…」
聞けと言おうとして、動きが止まった。
彼の顔に、珍しく驚きが広がった。
死に神は、街を見下ろして微笑んでいた。
重さを感じない服と髪が、闇に靡く。
それはとても嬉しそうで、相応しくない言葉を承知で言うなら、幸せそうで。
彼女が死に神であることを忘れるようなものだった。
「…地上のお祭りとは良いものですね」
夜の住人として、自分には自分の、心地良い立ち位置というものがある。
「色とりどりの灯りに彩られるという今日を、一度見てみたかったのです」
それでもこの日くらい、こんな時間を経験するのも良いかもしれないと思った。
「ありがとうございます」
満足したと呟きながらも、視線を地上の光から離さないままに。
たったこの程度で喜べるくらいに、死に神とは孤独なものだった。
コウモリは不満の言葉を、今日何度目かの溜息に替えた。
これだから深く関わるのは嫌なのだ。
知りたくもない情報が積もって、足跡が残ってしまう。
自分の足跡を見られること、それ以上に。
ここまで進んでしまった足跡を、見て自覚することが嫌だった。
「…あんたと関わるのは、疲れる」
意識しないまま口をついて出た言葉を、どこまで理解したのか。
「だからきっと、貴方は私にとって数少ない存在なんでしょうね」
いつもの愚痴と思ったのか、死に神は笑った。
「私が変わったことをしても、咎めませんし」
「あんたはある意味、変わっていない」
変わり者ではあるが、それを言うなら自分も同じだ。しかし「何故彼女を仕事相手にするのか」と問われれば、最も相応しい理由が一つある。それが死を扱うが故の性なのか、彼には分かり兼ねたが。
死に神は、興味深げに顔を上げた。
彼があえて口にするという時点で、きっとそれは皮肉めいたものだろうと。
少し期待しながら待っていたから、次の思わぬ変化球に対応できなかった。
「嘘を口にしない」
共に仕事をして初めて聞く、信頼ともとれる言葉に、死に神は流石に息を呑んだ。
彼はいつも、自分しか信じていないような顔をしていたから。
まじまじと相手の横顔を見つめるが、その表情は変わらない。
どうやら冗談でも揶揄いでもないらしい。
暫くして、死に神はそっと首を傾げた。
「…もう一回」
「言わない」
恐らくコウモリにこんなことを言わせるのは、彼女くらいで。
こんな死に神の表情を知るのは、彼くらいだ。
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