第二章『悔恨』 第四話



 一樹はバックヤードにあるキッチンで一息ついた後、キッチンに入ってすぐにある階段を駆け上った。この階段は一樹の自宅と繋がっているせいか、所々に私物が落ちている。登りきれば、床に放置していた紙袋を引っ掴む。確かな重さを確認して、来た道を戻った。

「はい、これ渡したいもの。」

「…なにこれ?」

「知らんけど、有輝也から頼まれたの。今日、渡してほしいって。」

 日付まできちんと指定しているあたりに彼のほんのりとした悪意を感じる。怪訝な表情を隠しもせずに、カウンターに置いた紙袋を成亮は受け取った。

 一樹の脳裏には有輝也との会話が思い浮かべられる。あれは一昨年の冬の出来事だったと記憶している。いきなり彼から「会おう」というメッセージを貰ったのだ。違和感を覚えたけれど、一般入試を受験する成亮と違い、有輝也は推薦で合格したと聞いていたので暇なのだろうと軽く見ていた。

 今と同じくこの喫茶店で待ち合わせをした。有輝也は重たそうな紙袋片手に、黒のコートを羽織って現れた。眠たそうに見える眼が、いつも以上に赤く腫れていた。ぽつぽつと雨のような会話を終えた後は、紙袋を一樹に一言添えて渡した。

「しげあきに二年後の一月一日に渡してほしい。」

 自分で渡せばいいのになんて思ったけれど、あまりにも神妙な顔つきで頼むものだから受け取ってしまった。

 そして、その数週間後に彼は亡くなった。

「なんだろう。」

 成亮はがさりと紙袋の中を漁る。和も興味を持っているようで、目を丸々とさせて成亮の様子を注視している。

 成亮は中から大きな冊子を一冊取り出した。グレー色で、小学校の教科書くらいの厚みと大きさだ。

「アルバム…?」

 和が小さく呟いた。成亮は和の言葉に同意するように頷き、ぱらりと表紙を捲った。

「あ。」

 小さく漏れ出た声。成亮は目を見開いて、驚愕の表情のまま硬直する。カウンター越しでも、彼の細い指先が震えているのが見えた。

「成人おめでとう…?」

 彼の隣に座っていた和が目立つ文字を読み取った。その瞬間、ぱたりと成亮はアルバムを閉じる。不愉快な表情を露わにして、がたりと音を立てて立ち上がった。力強く胸にアルバムが抱かれている。

「帰る。」

「はいよー、家でゆっくり休みなー。」

 カウンター内で頬杖をついた一樹は止めもせず、緩やかに流した。今にも泣きそうな顔で退店した彼に、困惑しながらも和も「ご、ごちそうさまでした!また会いましょう!」と律義に頭を下げて、成亮の後を追った。

 取り残された空間には、まだ成亮と和の温度が残っている。静寂の中に流れる喧騒の気配に、一樹は一人で溜息を吐く。

「最低だな、有輝也。」

 あたたかい色に照らされた店内で、冷たくなった呟きは輪郭を失って、喫茶店の虚空に消えていった。

 心臓が、痛い。



 夢中で走っているけれど、血液中に残っていた酸素は二酸化炭素となって身体から消えていく。成亮は二酸化炭素に溺れかけて、歩道の途中で足を止めてしまった。頭を垂れて鼠色のアスファルトに成亮の視線が刺さる。

 ぽたり、とこめかみから汗が伝って地面に染みる。

「っ、シゲちゃん!」

 地面が擦れた音と共に背後から和の声が聞こえた。成亮は肩で息をしながら後ろへと視線を投げかける。彼は頬を赤く上気させながら軽く息を乱していた。

 有輝也の遺品を胸の中で力強く抱きしめる。固い感触が服越しに伝わった。

「大丈夫?」

 心配そうに、和は声を震わせる。

「逆に聞くけど、大丈夫そうに見える…?死んだ親友から遺書みたいなアルバム貰って、大丈夫そうに見える?ずっと、ずっと俺は我慢してたけど。なんで死んだんだろうって我慢してたけど、無理だ。俺には…耐えられない。有輝也の気持ちがわからない。」

 温かい何かが頬を通過した。

―――泣いている、そう認識した時に愕然とした。今まで成亮は有輝也の死で泣いたことがなかったのだと、今、自覚したのだ。外れた箍はなかなか戻すことが出来ず、潮風と同じ風味がする涙がぽろぽろと心のコップから溢れる。

 アルバムを抱きしめていた腕の力が徐々に抜けていった。

「シゲちゃん…。」

「こんなの、いらない。俺にはもう何もわからないから。」

「…そんなこと言っちゃだめだよ。」

 アスファルトに落ちかけていたアルバムを、和は支えるように成亮の胸に押し付けた。その表情はなんだか切なくて、遣る瀬無さそうで苦しそうだった。

「今は思い出がいらないかもしれない。だけど、いつかいる日がくるかもしれない。そんな時に後悔するんだよ。どうして捨ててしまったんだろうって。俺はシゲちゃんにそういう思いをしてほしくない。有輝也さんだって…何か理由があるんだよ。こんなアルバムを残した理由が、あるんだよ。だからどうか捨てないであげて。受け入れろとは言わないから彼の生きていた証拠をこの世から消し去らないであげて。」

「和くん…?」

「ちょっとシリアスすぎた?ごめんね。でもね、本当に有輝也さんはシゲちゃんのことが大好きだったんだなって、伝わるから。」

 涙を流す成亮に、和は諭すように微笑みかける。そして彼は成亮を引き寄せて、がっしりとした腕で抱きしめた。何度も大丈夫、大丈夫だからと優しく囁かれる。何が大丈夫なのか、ちっとも理解できなかったけれど、ひどく心が許されたような気がして、彼の深緑のスウェットが黒くなるまで泣き続けた。

 泣き疲れた成亮は和と近所の公園のベンチに移動した。寂れた公園に親子はおらず、ただ鉄さびた遊具がいくつかあるだけだった。

 ぽつ、ぽつと心が赴くままに有輝也について話す。

「有輝也は俺の親友だったんだ。小さい頃から一緒に過ごしてた。親戚でもあったし幼馴染でもあった。親友でもあった。本当に小さい頃からそういう家族ぐるみで付き合いしていて、なんとなくこの先もずっと一緒にいれるんだろうなと感じていた。俺の家族が亡くなってからは一緒に暮らすようになって、その気持ちは強くなった。だけど、だけど有輝也は死んだ。自分の部屋で首を吊って死んだ。俺は…有輝也の隣にいたのにあいつの気持ちにずっと気付かないで、助けられなかった。」

 そう言って、成亮は膝の上にあるアルバムの表面を指でなぞった。これは有輝也の『死にたい』という気持ちの結晶だ。これを一樹に預けるということは、衝動的な自殺ではなく前もって計画していた自殺なのだという見せしめだ。

「有輝也さんはどうして死んだか、シゲちゃんはわかるの?」

 凛とした芯のある声で、和が尋ねる。

 心当たりはある。これだろうという事実は確かに成亮の中で燻ぶるように存在している。だけれどそれを赤の他人である彼に言うのは憚られた。成亮は緩慢に首を横に振った。

「知りたいとは思わない?」

「え?」

「有輝也さんが死ぬ前にどういう気持ちだったか、どういうことを考えていたのか。知りたいとは思わないの?」

 そんなこと考えてもみなかった。これが原因だろうという事実はある。だけれどそれが上手に自殺に結び付けられないのも、また成亮の中の事実として存在した。だからこそ成亮が悪いのではないか、そんな黒い靄に心が霞んでいくのだ。

 不意に和は視線を逸らして、地面を見つめる。そして申し訳なさそうに言葉を吐いた。

「ごめんなさい、不躾でした。」

「ううん、俺も少しすっきりしたし…。和くんに言われて、確かに上手に有輝也と自殺を結び付けられていないなって思ったから。それを知れば、俺の気持ちも少しは晴れるかな。」

「さあ、どうだろう。晴れるかは分からないけど、考え込んで自分のせいだってうじうじするよりは何か責任転嫁できるものを見つけたほうが生きやすいかもね。」

 非常な言葉だった。まさか和がそんな言葉を吐くとは思わず、成亮は目を見開いて、彼の顔を見る。

「な、なに?」

 注視に、和はぱちくりと瞠目した。

「いや、まさか和くんがそんな冷たい言葉を吐くとは思わなくて。」

「だって腹立つでしょ。シゲちゃんが落ち込むって分かっておきながらさ、自分のエゴを押し付けてるんだから。しかも自分は死んで逃げてるからシゲちゃんは余計に当たる場所なくて遣る瀬無くなっちゃうし。シゲちゃんのこと大好きなのはすごくわかるし、何か残しておきたいっていうのは伝わるけど、それならわざわざこんな回りくどいことしなくていいんだから…、やっぱりエゴだよエゴ。」

 自分に起こった出来事かのように唇を尖らせて文句を言う姿は年相応の少年に見えて、不思議と心が和んでいく。

「ふふ…、そうかもね。」

「シゲちゃん、辛くなったら絶対に責任転嫁してよ。それで死んでしまったら元も子もないんだからね。」

「うん、わかった。すこしだけ、前向きになれたかな。和くん、ありがとう。」

 成亮の感謝の言葉に、和は安堵したように歯を見せて笑った。白い歯が寒空の隙間から差し込む太陽の光に反射して、ひどく眩かった。

 成亮はその光を全身で受けるようにベンチの上で背筋を伸ばし、言い放つ。

「有輝也の部屋を探してみる。もしかしたら何もないかもしれないし、何かあるかもしれないけど。死ぬ前に有輝也が何を考えて死のうと思ったのか、責任転嫁できる場所を見つけようかな。」

「俺も手伝うよ、一人だと悲しいから。」

 和の言葉に、成亮は再度「ありがとう」と破顔した。

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