第二章『悔恨』 第二話



きらりと喫茶店裏の小川に流れている水面が反射した。一樹は小川の淵と喫茶店を斜めにつなぐコンクリートの短い階段に座り込み、煙草の煙を吐く。

 白い息と白い煙が同時に吐き出されていて、なんだか陳腐。肌の表面を撫ぜる寒さに、ぶるりと身体が震えた。

「あー…。」

 意味のない母音を吐き出しながら空を見上げる。鉛色が一樹の故郷を覆い尽くしていて、余計に一樹の感情をどんよりとさせた。

「何してんの、一樹。」

 背後から聞き覚えのある声が一樹に落ちる。ゆるりと顔を声のした方に向けると、階段の一番上で一樹を見下ろしている成亮がいた。煉瓦色のタートルネックセーターに身を包んだ彼は同系色のブーツで地面を蹴り、階段を降りた。

「よいしょっと。」

 一樹の座っている段と同じ場所に成亮も腰掛ける。

「何してんの、中開けてたでしょ。」

「そうだけど、一樹いないから。」

 一樹は質問に答えずに、同じ内容を彼に返した。ぽかりとまた口から丸い輪を吐きだす。

「知り合いの子は?」

「もう店内にいるよ。」

「あ、そう。じゃあ、俺はこの煙草吸い終わったら中に入るから先に入ってなよ。」

 成亮は何か言いたげに口をぱくぱくと開閉したけれど、すぐにコンクリートに視線を穿って「わかった」と言った。

 成亮は立ち上がり、ぱんぱんとけったいな音をたてて尻の埃を払う。

「煙草、やめたんじゃなかったの?」

「やめてたよ、やめてたけど。」

「…ああそう。まあいいや。早く吸い終わってよ。一樹のご飯食べに来たんだから。」

 ぱらりと返事代わりの手をあげると、彼は呆れたように溜息を吐いて、またブーツを鳴らしながら階段を登っていった。

 最早吸い慣れた煙草は苦みさえ感じない。ジーンズのポケットから携帯灰皿を取り出して、潰すように煙草を押し付ける。口から吐き出された最後の残骸は空中に溶け込んで消えていく。

「…もう少しだけ。」

 もう少しだけ、寒空の下で考え事に耽っていたい。

 そう思って、また煙草とライターを取り出して、口にくわえる。ぱち、ぱちという音が鳴った後に熱くなる煙草の先端。それがタイムリミット。

 結局一樹はぼんやりとした思考を澄ませることはなく、もう一本を吸い終わってしまった。

 喫茶店裏の茶色の扉から店内に戻ると、カウンターに座っていた成亮は白けた目で一樹を見ていた。

「遅い。」

 童顔である成亮が怒りを露にしても、大して怖くはない。一樹は耳にぶら下がっているピアスを弄りながら「ごめんごめん」と流すように謝罪をした。

 何かを言おうと口を開いた成亮は、すぐに溜息と共に閉口した。

「えっと、初めまして?」

 二人の険悪なムードに、成亮の隣に座っていた少年が困惑したように視線をきょろきょろと動かす。深緑のスウェットを着ているのがカウンター越しからも見えた。

「名前は?」

「あ、明智和と言います。よろしくお願いします。」

「ふうん、俺は蓑浦一樹。よろしく。いくつなの?」

 成亮と同じくらいに、彼は童顔で年齢の推測が出来なかった。

「十八になります!」

 元気溌剌に応える和に、再度一樹は適当な相槌を打った。

「お腹空いた。」

 不躾に、淡々と成亮は言葉を吐く。

「何にする?お前の好きなオムライス?それとも―――。」

「ナポリタンが食べたい。」

 成亮は言葉を遮る。

 咄嗟に一樹は口を噤んだ。本当に変わってしまったのだなと心臓の奥でぐずぐずと後悔が痛む。小さい頃から喫茶店を経営していた両親に倣って、一樹も料理を始めた。最初は上手にいかなかったものだけれど、次第に食べられるようになっていった。そんなタイミングで幼馴染であった成亮と有輝也に料理を振る舞った。

「美味しい!かずくん、これめっちゃうまいよ!」

 成亮は元気溌剌に一樹のオムライスを褒めた。頬にケチャップライスをくっつけながら食べた。それを言っている年下の少年が愛らしくて、嬉しくて胸の奥が燻ぶるように熱くって。

 それ以来、成亮は一樹のオムライスを好いて食べていた。ナポリタンを気に入っていたのは、むしろ―――。

「ああ、そう。わかった。ナポリタンね、ちょっと待ってろ。」

「うん、待ってる。」

 取り繕うように一樹は言葉を紡いだ。成亮は口元に上品な笑みを浮かべて、頷いた。

 一樹のナポリタンを気に入っていたのは、むしろ―――有輝也の方だった。心臓の奥でぐずぐずと後悔が痛む。

 一樹はカウンターの奥にあるキッチンに入る。適当な材料を冷蔵庫から取り出して、調理に取り掛かった。

 一樹が有輝也の訃報を聞いたのは母親からの電話だった。大学三年生で、そろそろ就職活動に精を見せなければいけないと考えていた頃だ。朝からアルバイト先のファミレスで馬車馬のように働かされて終わったのは午後十時。退勤後に母親からの不在着信が百件近くあって、ひどく驚愕したことを覚えている。

 墨汁を垂らしたような夜空の下で、白い息を吐きながら母に電話をかけた。どうせ大した用事じゃないのだろう、その時は楽観的に考えていた。数コールで出た母はひどく憔悴した声で言葉を発した。

『有輝也くんが亡くなったの。』

 かじかむ指先が熱くなったような気がした。なぜ死んでしまったのかという憤怒とやっぱり死んでしまったかという諦観がずしんと一樹の肩を重くした。予感はずっとあった、彼がいつかこの世から消失してしまうのではないかという予感。

 一樹は出来上がった三人分のナポリタンをさらに乗せて、カウンター内に戻る。

「はい、お待たせ。」

「わー、美味しそう!」

 和は興奮したように鼻を膨らませて、目を爛々と輝かせる。成亮は緩やかな笑みを浮かべていた。彼らの目の前にナポリタンの皿を置いて、一樹も成亮の右隣に座った。

「いただきます!」

「…いただきます。」

「はい、どうぞ。」

 横目で彼らが食べ始めたのを見て、一樹も食べ始める。コクと程よい酸味が絶妙なバランスを生み出していて、自画自賛ではあるがとても美味である。

「うまっ!」

 和から感嘆の声が漏れた。

「美味しいだろ。」

「めっちゃうまいっすね!びっくりしました!俺も料理するんですけど、こんなに美味しいナポリタン食べたことない…!」

 彼の瞳の中の星がきらきらと輝いている。子供のようなその表情は昔の成亮を見ているようだった。

「大袈裟だなあ、悪い気はしないけど。」

「一樹は料理だけは本当に上手だよね。」

 皮肉のように語りながらも、成亮の皿の上のナポリタンは半分以上無くなっている。まだ一樹は二口ほどしか食べていないのに。

「そりゃどうも。」

 一樹はキザに肩をすくめて、フォークを動かすことに専念した。

 暫くして食べ終わった一樹は食後のコーヒーを淹れるためにカウンター内に戻った。ぽつぽつと降り始めの雨のような調子で三人の会話は続く。

「へえ、和くんはシングルマザーなんだ。」

「はい、そうなんです。」

「それは大変だな、一人っ子?」

「あー…、そう、です!」

 会話のほとんどを構成するのが和と一樹であり、成亮は零雨のようにたまに口を挟む程度だった。

 一瞬、逡巡するように言い淀んだ和はすぐに明朗快活な立ち振る舞いに戻る。どうしたのかと尋ねたくなったけれど、親密でもないからそっとしておくことにした。

「ふうん、それは大変だね。」

「一樹さんは兄弟いらっしゃるんですか?」

「いや、俺は一人っ子。シゲの姉ちゃんと同い年だったんだけど―――。」

「一樹。」

 凛とした声がプライベート空間である喫茶店に響く。ほとんど傾聴に専念していた成亮が丸々とした瞳を鋭くして、一樹を責め立てた。

「用がないなら帰るけど。」

 暗に憤怒を伝えてくる。

「あー、ごめんごめん。用というか渡したいものがあるから来てもらったの。結構量があるからここには置いてないんだけど。ちょっと待ってろ、取り入ってくるから。」

 一樹は怒った彼から逃げるようにカウンター奥へと下がる。耳の裏でどくんどくんと過剰に心臓が血液を循環させている音が聞こえた。彼らの死角になるであろう場所で立ち止まり、ほんの一息。

「怒り方も有輝也そっくりじゃねえか、ふざけんなまじで。」

 悪辣な言葉。

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