第一章『懐古』 第四話



 かなえと別れて、帰宅する。玄関の茶色の扉を開けると、隙間から美味しそうな空気が漏れ出ていた。ぐうっと呻る腹を押さえて、ひたひたとリビングまで移動する。

「ただいまー。」

「あ、シゲちゃんおかえり!今、ちょうどお雑煮作ってて。」

「えっ、和くんが?」

「そう!美和子さんはおせちの材料が足りないから買い出しに行ってる。」

 にこにこと快活そうに笑う彼に、なんとも言えない表情を露にした。アイランドキッチンで作業する彼は、ここ数日で食器の位置を把握してしまったらしい。てきぱきと迅速に動く彼に感嘆の溜息すら漏れる。

「すっげ。」

「ねえ、シゲちゃん!味見してよ。」

 小声で呟かれた言葉を突き破るように和の声がかぶさる。鍋から小皿に汁を注いで、力強く成亮の前に差し出す。

「あ、う、うん。」

 おずおずと成亮はその小皿を受け取り、口に含んだ。口内に広がる出汁と醤油の絶妙な風味、思わず目を見開いた。

「うまっ。」

「あ、本当?しょっぱくなかった?」

「全然!これ、和くんが一人で作ったの?すごくね?」

 思わず漏れ出る感想に、和は安堵したように眉を下げた。

「もちろん、美和子さんにも手伝ってもらったけど…。そんなに美味しい?」

「めっちゃくちゃ美味しい。まじで今までで食べたどの雑煮よりも美味しいかもしれない!すごー…。」

「それは褒めすぎ!」

 和が喉の奥で引き攣ったように笑う。その笑い方もなんだか面白くて、成亮はふるふると肩を震わせた。

「変な笑い方!」

「え、そうです?わー、無意識かも。恥ずかしいな。」

 破顔した成亮と恥ずかしそうな和。不思議な光景だけれど、成亮の心の中にほんわかとした温かさが生まれた。まるで気兼ねなくコミュニケーションを取れる兄弟のよう。血縁関係なんてないし、きっと成亮が大学に戻れば滅多に会うこともできない。だけれど、それでも二人の関係値が緩やかに上昇している気配がした。

「シゲちゃん、笑ったほうがいいっすね。」

 少し砕けた敬語が、成亮の鼓膜を揺らした。成亮は逡巡して「俺?」と和に質問する。

 和は鼻をふくふくとさせて、激しく上下に首を振った。そして弧を描く口元の端に両手の人差し指を当てる。

「シゲちゃんは笑ったほうがいいです。俺がこの家に来てからずっと不機嫌そうで、どっか無愛想な感じがしたから。笑顔を浮かべても、それは本当の笑顔じゃない気がして。だから絶対に!心の底から笑ってた方がいいです!」

「本当の笑顔…。まあそうかもしれないね。」

 肩の力が抜けていく。和の言葉は心を温かくする効果がある気がする。

「シゲちゃんはその方がずっと魅力的です!」

 にかり、快活に和は笑う。昔の成亮もこうやって感情表現が不器用な有輝也を笑わせていた。まだお互いに物心ついて間もない頃、引っ込み思案だった有輝也と一緒に遊んでいたのは天真爛漫と誰もから言われた成亮だった。

「ありがと、少し元気出た。」

「はいっ!あ、鍋に火付けっぱなしだった。煮詰まっちゃう!」

 身を翻した和に、成亮は苦笑を零した。

 暫くして美和子が帰宅した。信二はずっと二階の自室でテレビを見ていたらしく、夕方ごろには一階にあるリビングに降りてきていた。料理の準備が終わった頃には、あと数時間で年を越してしまう時刻となっていた。年末特有の軽やかな空気と、ほんの少しの寂しさがリビング内に充満する。

 リビングの隅に置いてある四十二インチテレビには、年末特番が延々と流れている。特に面白いわけではないけれど、バックグラウンドミュージックとしては最適だった。既にいくつかの缶を開けている信二は顔を赤くしている。

「久しぶりに家族団らんな感じがするなあ。」

 けらけらと面白そうに肩を震わせる。

 一昨年は成亮の受験勉強のせいで、ひっそりとした年末を過ごした。去年は有輝也がいない初めての年末に空気がひどく混濁して重たかった。この家族団らんは明智和という一人の少年が作り出している。きしきしと軋轢ばかりが発生しているこの家庭を、彼は綻ばせているのだ。

「そうですねえ。」

 美和子も柔和な笑みを浮かべて、頬に手を当てた。彼女もまたアルコールを身体に含んでいるせいか、平生よりも上機嫌である。

「…二人とも年なんですからあまり飲まないでくださいね。」

「分かってるわよ、大人だから流石にそこらへんはセーフ出来るから。」

 本当かな、そんな疑問が思考を掠めるけど、わざわざいう必要性もないだろうと口を噤む。そういう成亮はアルコールではなく、大人しくオレンジジュースを飲んでいる。隣に座っている和も同様だ。もしこの二人が酩酊して、後片付けが出来なかった場合を考慮して、だった。

 眼前から消えていくオードブルの数々。和はにこにこと作った料理が消えていくのを嬉しそうに眺めていた。

 テレビも満腹も佳境を迎え、あと数十分で年を越してしまう。美和子と信二はお互いにとろんとした目をしており、年を越せば眠りの海へと彷徨うことは見て取れた。

 和と二人で食べ終わった皿を片付けている最中、テーブルの上に置きっぱなしにしていた成亮のスマートフォンが着信を知らせる。

「あ、ごめん。」

「いいですよ、一人で片づけておくんで。」

「ごめん、ありがとう。あとで手伝うから。」

 スマートフォンを攫い、寒さばかりが募っているリビングの外―――廊下へと出る。改めて、画面に表示されている名前を見やった。

蓑浦一樹みのうらかずき

 脳裏に蘇る、いくつか年上のチャラチャラとした男。有輝也と成亮の幼馴染。

 心中にむくむくと湧き上がる憂鬱を誤魔化すように溜息を吐き、成亮は緑色のボタンをスライドした。

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