第一章『懐古』 第三話
*
海を歩く。
晴れ晴れとした群青の空から燦然と太陽が見下ろす。成亮は踏みしめるように砂浜を歩く。濃くできた轍は波に飲まれて消えていく。すん、と鼻を鳴らせば、潮の香りが鼻腔を突いた。
ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、きらきらと光る海を見やった。
足が止まる。
「きれい。」
地元の海。実家から徒歩十五分程度の近場の海、本来の成亮の実家よりは遠いけれど、それでも幼い頃から馴染みのある海だった。だけれど澄んでいて張りつめている空気を肺に取り込んで、一人で歩く海の景色はなんだか孤独で綺麗に感じた。
和が訪れて、三日が経った。今日は大晦日で、あと十数時間経てば年を越してしまう。他の家は知らないけれど、今年は親戚と会う予定はない。というか久城家が杜本成亮を預かって以来、親戚に会っている様子はなかった。おそらくそういうことだ。親戚一同、成亮を胡乱な目で見ている。
有輝也の葬式でも、そうだった。
『あの子が関わるとろくなものじゃないわねえ。』
『美和子さんも体調を崩したそうじゃないか。』
『まるで祟り神のよう。』
囁かれていた言葉が脳裏に過ぎる。
成亮からすれば、そんな言葉を有輝也の葬式で放つ親戚の方が祟り神のようだった。あんなに美しくて、心が綺麗な彼が死んで、どうしてそんなひどいことを言えるのか。理解に苦しんだ。
きらきらと輝く海の乱反射が、ひどく眩しい。思考から、海から逃げるように目を細めた。
「シゲくん?」
不意に横から女の子の声が伸びた。ゆらりと視線を移し、成亮は目を見開く。
不透明のビニール袋を片手に、女性が立っていた。薄汚れた白いシューズに、黒のスラックス。ジャストサイズの撫子色の薄着の上から薄い灰のカーディガンを羽織っていた。身長は成亮が少し高いくらいで、目線がかち合う。
小さくて鋭い切れ長の瞳に、さらりとした黒髪。小ぶりな、薄ピンクの唇。頬のほくろが淫猥な雰囲気を作っている。
成亮は彼女の名を呼んだ。
「かなえ。」
有輝也の、恋人だった人。
「びっくりしちゃった。」
「俺も。」
「帰ってたんだ。」
「……うん。」
海から移動して、地元のスーパー前の古びたベンチに腰掛ける。スーパーで買ったホットコーヒーを手の中で転がしながら、次の話題を考える。
夏川かなえ。同じ高校に通っていた同級生の女の子。有輝也が高校二年生の冬から死ぬまで交際していた、女の子。そして―――成亮が好きだった、女の子。
「シゲくん、あんまり実家に帰ってなかったみたいだから心配してた。」
「年末は帰ってたよ。」
「そうはいっても、大晦日に帰って一月二日にはもう向こうに行ってるって聞いたよ。」
誰に、とは言わなかった。あまり広いとは言えない田舎だから情報なんて、すぐに足を生やして歩き出す。知ろうと思えばいくらでも知ることのできる場所だ。
「まあね。」
喉の奥がくっついて、か細い声が出た。
逡巡するようにかなえは視線を彷徨わせて、薄い唇から「ごめん」と謝罪の言葉を吐きだした。
「不躾、だったよね。同級生の子たち、みんな心配してたからどうしても言いたくなっちゃって。シゲくんの気持ちも、私理解できるから。」
「…ありがと。」
何が理解できるというのだろうか。そんな皮肉が喉まで出かかるけれど、ごくりと唾と共に体の中へと押さえつけた。
有輝也の死は、成亮とかなえでは全く違う意味を伴う。そして、成亮にとって有輝也の死の意味はひどく残酷なものだ。
ぴゅうと軒下にいる二人に冷たい風が吹き抜ける。
「シゲくんさ、有輝也くんの親友だったからショックだったよね。」
ころころと、手の中で温くなっていくホットコーヒーに成亮は視線を落とす。隣で彼女も足元に視線を落とす気配がした。
凛とした声で刻まれる言葉に、成亮は肯定も否定もしなかった。
「それとも―――死んで清々した?」
「っ。」
視線を上げる。
鋭い眼光が彼女から放たれている。まるで猛禽のような眼光に、成亮は息が出来なくなった。逃さない、そう言っているような気がした。指先が震える。
「私、知ってるよ。」
「…なにを。」
「シゲくん、私のこと好きだったよね。友情を取るか、恋愛を取るか。いつも悩んでた。苦しそうだった。」
ごくりと唾を飲みこむ。背筋を伝った冷や汗に、温かさが芽生えた。指先の震えも、いつの間にかなくなっている。
成亮は視線をすっとホットコーヒーに戻した。
「確かに、確かに…かなえのことは好きだったし、今も素敵な女性だなとは思ってる。だけど、有輝也が死んで清々するってほど、君のことが好きだったわけじゃないよ。」
不躾な言葉だ。俯瞰して、溜息が吐きたくなる。だけれど、こうでもわないと彼女の瞳を誤魔化せないと思った。
「…そう。変わってないね、シゲくん。」
「俺が毒舌だってこと?」
「ううん。有輝也と同じで、結局友情を取っちゃうところ。私ね、ほとんど振られてたみたいなものだったし。」
知ってる。有輝也がまともに愛してあげてないくらい、見ていたらわかる。親友と好きな人だったからわかる。
成亮は罪悪感から目を背けるように、コンクリートの地面を靴で擦った。
「そうなんだ、知らなかった。」
「…、高校の同窓会、来てよ。」
疑念を含んだ溜息と共に招待の言葉。
同級生には会いたくない。きっと変わってしまった成亮に唖然とするだろうから。かなえは変わっていないと成亮を評したけれど、成亮自身は変わってしまったと思っている。無意識のうちに有輝也を演じている、そんな不思議な感覚があった。
「行けたら行く。」
ぼそりと呟いた。
かなえは呆気にとられたようにぽかんと口を開けて、へなりと力なく笑った。
「二人は似てるね。」
間違ってはいない。
*
彼女が出来た。
有輝也のぼてっとした唇から紡がれた言葉を理解するのに、数秒は要した。成亮は唖然とした様子で口を開きっぱなしにして、ゆらゆらと小刻みに視線を揺らして眼前にいる彼を理解しようとする。
胸がじんわりと温かくなる感覚。歓喜だ。心臓が送った血液は熱くて、成亮の頬を紅潮させた。
「お、おめでとう!」
祝福の言葉は劈くようにうるさかったようで、有輝也は不機嫌そうに耳を押さえた。
―――高校二年生の夏の出来事だった。
誰もいない東雲色の教室で報告された衝撃の言葉に、成亮は机の対岸にいる彼に詰め寄った。
「ね、誰?誰?俺の知ってる人?」
「うん、そう。」
「えー!そんな有輝也にそんないい雰囲気の人いたっけ?」
「まあ、向こうから告られたし。」
有輝也は外の風景に視線を移しながら、煩わしそうに首筋の汗を拭った。やはりどこか不機嫌そうな様子だった。
「ね、誰なの?」
成亮が尋ねると、彼は東雲色が映りこんでいた瞳をずらした。成亮が彼の茶色の瞳に映る。鏡合わせに映る成亮、丸々とした子供のような目に濃い眉毛と長い睫毛。平均的な唇に、印象の薄い鼻。どちらかといえば可愛らしい印象受ける顔だと自覚している。
有輝也は目を細めて、ぐしゃりと幾許か他人より色素の薄い成亮の髪を撫ぜた。
「な、なに?」
「かなえだよ、かなえ。」
「え、夏川?」
急激に、音がしなくなる。心臓がどくん、どくんと生命の音を奏でている。まるで成亮を責め立てるように、どくん、どくんと繰り返す。
夏川かなえは同クラスの女子で、成亮が密かに想っていた女性だった。その気持ちは恋として芽生えるにはまだ小さく、しかし無視するには成亮の心に根を張りすぎていた。誰にも言ったことのない、成亮の宝物が突如親友によって強奪されたような気持ちになる。
彼はぐしゃりと撫でる手を辞めることなく、さらに搔き乱した。
「もー、やめてよっ。」
成亮はぱしりと彼の手を叩いた。
「…珍しいじゃん、告られても有輝也断り続けてたのに。」
気まずい空気を作り出さないように、頭を整えながらできるだけ陽気な声で尋ねた。有輝也は怪訝そうに机に頬杖をつく。
「別によくね。」
「そうだけど!珍しいなあって。」
心臓に突風が吹いたような感覚だ。
成亮は有輝也のことを心の底から尊敬して、親友として愛している。かつて家だった炭を見た時、成亮は泣くことができなかった。ただ茫然として、世界を解釈できなかった。まるで画面越しの風景を眺めている、そんな気持ち悪さでいっぱいだった。それを現実に引き戻してくれたのは、同じくその炭を見ていた有輝也だった。泣けない成亮を、有輝也は切実に抱きしめた。腕と胴に伝わる生命の熱が、現実なのだと教えてくれた。
その瞬間、空っぽだった心のコップに青が溜まる。溢れ出た青は涙となって、瞳から零れ落ちた。崩れ落ちるように二人は号哭した。
そんな彼だからこそ、乱雑で不機嫌そうな様子には心が痛くなる。もしかして一番嫌われたくない人物から嫌われたのではないか、そんな錯覚に陥るのだ。
彼がいなくて、成亮は生きていける気がしない。
「まあ、可愛いから付き合っただけ。もうこの話は終わろう。いい時間だし帰ろ。」
「う、うん。わかった。」
「あ、そうだ。」
帰ろうと机横のバッグを取りかけた手が止まる。成亮は落としていた視線を、再度有輝也の方に向けた。
有輝也は綺麗な顔でにこりと笑みを浮かべた。
「な、なに?」
二度目の困惑。
「ハッピーバースデー、しげあき。十七歳おめでと!」
「あ、あぁ…ありがとう。」
単純な男子高校生だから、その言葉だけで胸の靄が霞んで消えていくのだ。
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