第一章『懐古』 第二話



 落ちている。

 寝そべって、密着している地面が底抜けたように落ちていく。浮遊感と恐怖は溜まったものじゃなくて、成亮は苦しげな息を吐き出した。

 怖くて、震えている。どうにか叫びたいのだけれど、重力で押さえつけられた喉仏のせいで上手に声が出せないでいる。

 怖い、怖い。助けてほしい。瞼の裏に、両親が、二人の姉が、立っている。成亮をじっと見つめている。

 まるでいざなうように、優しい瞳で見ている。なんだかそれがとても怖くて、成亮は「ひっ」と喉を鳴らした。

 これは夢だ、分かりきっている。分かりきっているのだけれど、上手に目を覚ますことができない。べちょりと首筋が汗で濡れている。こんなにも現実の感覚とリンクしているのに、ちっとも身体は目を覚ましてくれない。

 不意に、あつい手が成亮の額に触れた―――。



 は、と目を覚ます。ぼやけた視界と額の熱さ。ぱちくりと瞠目する成亮に、安堵したように有輝也は「おはよう」と笑った。

 視界が失った輪郭を取り戻す。有輝也の綺麗な顔と、滲んだ紫に染まった白い天井。額には彼の手が乗っていて、夢から掬いあげてくれたのは有輝也なのだと瞬時に理解する。夢の中でも感じたべちょりとした首筋はより不快さを増している。冷房の効いていない夏の空間は不快でしかなかった。

「お、はよう?」

 自分がどこにいるのか、一瞬、理解できなかった。

 身体を起こして、視線だけ円を描く。たくさんの埃と歴史が詰まった美術準備室。美術部員くらいしか入ることがない、特別な場所。

 壁際に設置されている蛇口から、僅かに水音が聞こえた。

 いくつもの古びた会議テーブルをくっつけてできた大きなテーブルの上にはまだ絵の具を洗い流していないパレットや筆、描きかけの絵があった。

 そんなテーブルの近くの二人掛けのソファーで、成亮は眠っていた。理由は一緒に帰宅するはずの有輝也が、作業に熱中していたからだった。今日は中間テスト初日で、部活動はない。だけれど、どうしても作業したがった有輝也に付き合っていたのだ。最初は校則違反してスマホに勤しんでいたけれど、途中で飽きて眠ってしまった。

 すとん、とこの状況に納得がいった成亮は頬を膨らませた。

「…もう夕方じゃん、さいあくー。」

「ごめん、熱中してたから。」

 熱中すれば、うんともすんとも言わなくなるのは長い付き合いで知っていた。だからもう文句を言うことはないけれど、有輝也自身はそれがひどく恥ずかしいらしい。白い頬をほんのりと色付かせて、目尻を下げた。

 制服が汚れないように着用していたエプロンを脱ぎながら、有輝也は「大丈夫?」と成亮に聞いた。

「え?」

 趣旨が理解できずに、成亮は聞き返す。

「魘されてたから。」

「ああ、うん。家族の夢見ただけだから、平気。」

「…ああ、そう。」

 有輝也は脱いだエプロンを机の上に置いた。そして成亮の枕と化していた紺色のスクールバックを取る。

「あ、ごめん。潰しちゃって。」

「ん?平気、試験日なんて大したもの入れてないし。それより帰って、数学の勉強しよ。しげあき、次赤点とったらやばいんでしょ。」

「うっわ、忘れてたのに!有輝也のばか!」

「あはは、早く帰ろー。」

 もう!と頬を膨らませる成亮に、有輝也は肩を震わせた。

 茹だるような夏。外は紫色で、二人の間には湿気ばかりが溜まっていく。だけれど、そんな湿気を払いのけたくなるくらい、二人の距離はあと数センチだった。

 友情。


 帰宅後、美和子が作った料理を食べて、成亮の部屋に集まる。壁に寄せられた勉強机のスペースでは二人そろって勉強ができない。有輝也の部屋から持ってきた小さなテーブルで、身を寄せ合うように勉強をした。

「ぜんっぜん、わからん。」

 机に突っ伏す成亮に、有輝也はからころけろりと笑う。

「しげあきは分かりやすい文系だよね。」

「そういう有輝也はわかりやすいくらい優秀だよね、スポーツ以外。」

「うるさいなあ、教えないよ?」

 ごめんごめんと慌てて謝罪する成亮に、彼はまた楽しそうに目を細めた。

 冷房の効いた部屋は少し肌寒い。半袖短パンのあらゆる場所を擦りながら、成亮は言葉を吐きだした。

「さみぃ。」

「温度上げる?」

「んー、そうする。」

 有輝也は慣れた手付きでエアコンのリモコンを操作する。

 正直、成亮よりもそのリモコンに触れているような気がする。一応居候の身ということもあって、成亮は冷暖房を使うのを躊躇する。一度限界突破してしまい、軽い脱水症状を出してしまった。それ以来、有輝也は冷房事情を監視するようにこの部屋に来るようになった。

 迷惑をかけて申し訳ないと思う反面、成亮が意思を持ってリモコンに触れるより、幾許か罪悪感がないものだから嬉しかったりする。

「ねえ、そういえばさ。」

「うん?」

「俺と有輝也、来年受験じゃん。」

 かりかりとシャープペンシルの芯を削る作業に勤しむ。

 成亮のルーズリーフには有輝也に教えられたばっかりの数式と、生産性のない絵があった。そっとその絵に羽を生やす。

「うん。」

 ぼんやりとした相槌。

 彼もまた成亮と同じ作業をしていた。彼の場合はたくさんの文字列を生み出しているのだけれど。

「有輝也って―――どうすんの?」

 ぴたり。

 文字列を生み出していた彼の手が止まった。白いキャンバスに釘付けになっていた彼の視線が緩やかに上昇する。

 有輝也だけが持つ美しい茶色の瞳が、じっと成亮の言葉の意味を理解するように見つめている。その瞳に見つめられると、嘘をつけないような気がして、成亮は逃げるように視線を下げた。

 ほんの些細な疑問なのに、何かがひずんでいるような気がした。

「あ、いや、有輝也は絵のコンテストとかでも入賞してるから、さ。推薦で芸大とか行くのかなって。」

「…まだ何も考えてない。顧問の先生にはそうしたら?って言われてるけど。」

「え、すげえじゃん!」

「そういうしげあきは?何か考えてるの?」

 親友の才能の称賛で舞い上がった心も、親友によって一瞬で沈静する。

 正直、考えてはいる。考えてはいるけれど、それを言語化するのは躊躇われた。こんな身の上だから、堅実に大学へと進学して就職しなければいけないという気持ちがあまりにも強すぎて。現時点では成亮が思い描く将来よりも、堅実な将来の方が想像しやすい。有輝也のように多方面の才能があればいいのだけれど、成亮にはそんな器用なことができない。

 言い淀んだ成亮に、有輝也はそのぷっくりとした唇の隙間からため息を吐いた。

「別に言わなくていいけど。ずっと俺はしげあきの味方だから。それだけは覚えておいてよ。」

「…うん、ごめん。ありがとう。」

「うん。ちょっと休憩しよう。お茶、取ってくるね。」

 うん、と小さく相槌を打った。

 有輝也はそっと立ち上がり、ぽんぽんと通り過ぎる最中に成亮の頭を撫でた。がちゃりと部屋の扉が閉ざされる音がするまで、成亮は視線を上げることができなかった。





「あんまり飲まないタイプか?」

 信二の言葉に、成亮は苦笑塗れの「まあ」を零した。成亮の隣にはオレンジジュースを子供らしく飲む和がいる。向かい合わせで座った信二の眼前には汗をかいたビールがある。家にあるアルコールはそれしかないらしく、美和子は心配そうに同じものを成亮の目の前に置いた。

 数口飲んだだけでお腹いっぱいになってしまって、ビールはグラスの八割目でとどまっている。

「俺がその年になった頃は、飲めるのが嬉しくて毎日のように飲んでいたけど、今の子はそういうのがないのか。」

「さあ…。もしかしたらそういう人もいるかもしれないですけど、俺はちょっとそういうのはしんどいんで。」

「まあ、成亮はそういうタイプか。」

 昔を思い出すように遠くを見つめて、信二はうんうんと相槌を打った。

「…お前と有輝也が仲良くしてくれて、俺たちは本当に嬉しかったんだよ。」

 懐かしむように呟かれた言葉に、成亮はどう返答すればよいか悩んだ。心臓が掴まれたように痛くて、ビールで満たされた腹がさらに苦しくなるような気がした。

 無意識に、成亮はビールのグラスの丸みを指で撫ぜた。

「ありがと、うございます。」

 隣から不安そうな視線が刺さる。何も知らない和からすれば名が出た途端、空気が張りつめる感触は心地よくないだろう。

「美和子さんは、まだ?」

「…ああ、前までは大分落ち着いていたんだが、もうすぐ三回忌だろう。今は少し辛い時期らしい。」

「三回忌、そうか。もう、そんなに経つんだ。」

 美和子は有輝也の死を一番に見つけた。一人しかいない愛おしい息子の死を目の当たりにしてしまった彼女は、心を不安定になってしまった。しばらくは食事に手を付けないほど憔悴したものの、今はそんなこともなくなった、と思われる。ただ、たまにほんのした衝動で心の中にあるグラスから悲しみが溢れてしまうらしい。

 そんな時は、今日の昼のように、いきなり消えて自室で涙を流す。

 有輝也が亡くなって、この家は以前のような活発さを失ってしまった。彼が亡くなったのは、成亮が大学受験を終えた翌日だった。

 成人式を終えれば、すぐに三回忌である。

「どうせ成人式の日程とそう変わりはないから、それまではいてくれるだろ?」

「まあ、はい。大した授業はないので。」

「…よかった。成亮が出てくれないと、有輝也も可哀想だから。」

 そうかしら、そんな疑問が顔を出す。本当に彼が成亮のことを大切でいるなら、今もずっと一緒にいてくれているはずなのに。

「あの、有輝也さんって…?」

 おずおずと刹那の沈黙を裂くように和が尋ねる。

「長男。二年前に亡くなったの。」

「ああ、そうなんですね。すみません、そんな大事な時期なのに預かってもらって。」

 ぶっきらぼうに回答した成亮にも、和は笑顔を崩さなかった。むしろ申し訳なさそうに言葉を吐きだした。

「いいんだよ。久しぶりに食卓が明るくなった気がするよ。」

 信二の言葉に、和の表情が綻ぶ。彼の瞼の裏には一体どんな憧憬が浮遊しているのだろう。懐かしむように細められた目に、成亮の心臓はさらにぎゅうっと押さえつけられたような気がした。

 成亮の手元で握りしめられたグラスは温くなっていて、きらりとした黄金の液体の中に映りこんだ成亮は不幸せそうだった。

 あまり面白くのない晩酌を終えて、和と成亮は二階にあがった。冷え冷えとした廊下は二人の足先の感覚を鈍くする。

「そういえば俺と同じ部屋でいいんだよね?」

「はい!布団はもう美和子さんに準備してもらったので。」

「そっか、俺の部屋、狭いけどごめんな?」

 可愛らしい『ゆきや』というポップ体を睥睨しながら、成亮は自室の扉を開けた。ぱちりと電気をつける。まだほとんど荷物を出していないキャリーバッグのそばに、客用の布団が置かれていた。成亮はキャリーバッグから必要な荷物だけを取り出して、壁際のベッドの隅に置いた。

「布団、敷いても大丈夫ですか?」

「うん。」

 ありがとうございます、と和は感謝の言葉を吐きだして、布団を敷き始めた。

 成亮は、先ほどキャリーバッグから取り出したスウェットを手に取って、着替え始める。ひやりとした冷たさが、成亮の素肌を撫ぜた。着替え終わって、和の方を見ると彼も布団を敷き終わったようだった。

「寒い?」

「あ、そうですね。もう冬ですから。」

「暖房付けるね。」

 成亮は勉強机の上に置いてあったエアコンのリモコンを手に取り、電子音を鳴らした。有輝也がいつもやっていたこの行為は、相変わらず苦手だ。ぶおん、という音と共にまだ温まりきっていない風がエアコンの口から吐き出される。

「あ、ありがとうございます。」

「ううん、俺も寒いと思ってたし平気。」

 酔いが醒め始めて、少しだけ体が震える。酒気塗れの身体を誤魔化したくて、勢いよくベッドに腰掛けた。それに流されるように、和も布団に胡坐をかいて座る。

 一瞬の沈黙の音。成亮と和の微妙な気まずさの視線が交錯した。

「あの。」

 沈黙を壊したのは、和からだった。

「何?」

「もしかして、今日、俺、何か失礼なこと言いました?」

「え?」

「なんか、なんだろう…。たまに俺の言葉が引っ掛かってるように見えたので。俺の気のせいだったら申し訳ないんですけど。シゲちゃんとは仲良くしたい、し。」

 捲し立てるように紡がれる言葉に、成亮は驚愕の表情を露にする。

 何かを隠すことは得手だと自負していた。有輝也が亡くなってから頻度は少なくなってしまったけれど、それでも成亮にとって『笑顔』は最大の隠蔽工作だった。それが見抜かれたということに、愕然とした。

 そんなにわかりやすかったのだろうか、それとも―――。

「どうして、そう思うの。」

 冷気の籠った言葉に、和の身体はぴくりと震えた。

「な、なんとなく、です。今の言葉、なんか言っちゃいけなかったのかなって。態度とかじゃなくて、反応?あれ、それも態度かな。本当になんとなく声とか表情とか、会話のタイミングとか、ほんの少し違うなって、思っちゃうんです、俺。」

「…気にしすぎって、よく言われない?」

「言われます言われます。だけど、大体は間違ってないから。」

 情けなく眉を下げて、和は唇をきゅっと引き結んだ。今日会ったばかりであるけれど、いつも弧を描いていた口元が線を引くだけで、こんなにも印象が変化するものなのかと驚愕する。そして同時にあの感謝の言葉や肯定的な態度は、すべて彼のその繊細で敏感な感覚から構成されるものなのだと察した。

「そっかあ、それはなんというか。」

 生きづらそう、とまでは言えなかった。成亮は言い淀みを誤魔化すように、くしゃりと前髪をかき上げた。

 逡巡するように視線を部屋のあちこちへと彷徨わせて、溜息を吐く。

「別に和くんに対して何かある訳じゃないよ、それだけは安心して。ただ俺がまだ立ち直りきれてないってだけ。」

「立ち直り…?」

「うん、まあ本当に大したことじゃない。我儘かもしれないけど、気にしないで。」

 首を傾げる和に、成亮はくしゃりと笑いかけた。察しのいい彼は、成亮が暗に踏み込まないでと言っていることに気付いているだろう。

 和は「わかりました」と俯きがちに頷いた。

「ありがと。和はもう風呂に入ったよな、だったら夜遅いし、もう寝な。俺はシャワー浴びてくるから。」

「あ、はい…、いってらっしゃい。」

 搔っ攫うようにネイビーの下着を手にとって、部屋を出る。扉の隙間から聞こえてきたか細い和の言葉。

 背後でがちゃりと扉が閉まった。足先から伝わった冷たさはいつの間にか脳に作用して、ひどく優しくない思考が占拠した。横目に映る亡き人間のポップ体、こんなもの無くしてしまえば無駄に考えなくて済むのになんてひどい思考。

「最低だ、俺。」

 誰も知らない有輝也の隠し事を、成亮だけが知っている。それは即効性の毒のようで、遅効性だったらしい。吐き出された苦し紛れの息と共に「くそっ」と悪態をついた。誰もいない二階の廊下で、妙にその声だけが響いた。

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