第一章『懐古』 第一話



 じゅうじゅうと食欲を誘うような匂いに、成亮はごくりと唾を飲みこんだ。リビングのアイランドキッチンにて手慣れたように野菜炒めをする少年―――明智和はにこにこと朗らかな表情を崩さない。

 とりあえず、で家にあげて、美和子と少し会話をした後、彼はなぜか料理をし始めた。唖然とする成亮を余所に、美和子は「シゲちゃんはこの子に道具とか食器の場所教えてあげて」と言い放ち、二階の彼女の自室へと行ってしまった。

 成亮は彼の動線を防がないように、アイランドキッチンの隅で控えている。見知らぬ少年と二人きりというのは、非常に気まずいものだ。

「あの、すみません。」

 彼はくるりと首だけを動かして、成亮を見た。

「はい?」

「平皿どこにありますか?出来上がったので…。」

「ああ、ちょっと待ってて。」

 食器棚から平皿を取り出して、カウンターに置く。彼は人懐っこい笑みを浮かべたまま、大きい声で「ありがとうございます!」と感謝の言葉を伝えた。

「よし、できたっ。」

 和は一仕事終えたかのように息を漏らして、シンクの中にフライパンを置いた。そして事前に引き出しから出しておいたラップを、野菜炒めを几帳面に封じ込めた。

 天真爛漫な彼に心の奥がくすぐったくなるような懐かしさを覚えて、小さく笑みを零す。まるでを見ているようだった。

 改めて、彼を見る。まだ染色された痕跡を感じない黒の短髪。大きめの鼻に、丸々とした子供のような目。身長は成亮と変わりはないけれど、肩幅は彼の方があるようだった。

「あの、すみません。これってこのまま置いていても大丈夫ですか?それとも、冷蔵庫にしまいますか?」

「冷蔵庫に仕舞うよ、貸して。」

「ありがとうございますっ!」

 調子が狂う。

 彼から野菜炒めを受け取り、冷蔵庫に仕舞う。まだ夕飯にするには早いから、この選択は間違っていないはずである。にこにこと笑みを浮かべたままの彼は、成亮が仕舞ったことを確認して、再度「ありがとうございます。」と元気よく言った。

 彼は洗い物までしようとしたけれど、流石に申し訳なくて断り、美和子同様に温かい緑茶を注いで、席につかせた。

 成亮は蛇口からぬるい湯を出して、洗い物に勤しむ。

「えっと、明智くん?美和子さんとはどういう知り合いなの?」

「和でいいです!えっと、俺の家、母子家庭で母と美和子さんが知り合いなんです。でも母が体調崩して二週間くらい入院することになって、それで美和子さんの家に預かってもらうことになったんです。」

「ふぅん、美和子さんらしいっちゃ、らしいか。」

 彼女は温和で困った人がいたら放っておけない性質を持っている。今はもう死んでしまったが、昔、有輝也が飼っていた犬も美和子が拾ってきたらしい。

「えっと、お兄さんは美和子さんの息子さんですか?」

「え?ああ…、。次男の成亮。」

「しげあきさん!」

「ふふ…シゲちゃんでいいよ。和はいくつなの?」

 爛々と瞳を輝かせて名前を呼ぶものだから、吐息が籠った笑みを零す。成亮の問いに和は元気よく「十八です!」と答えた。

「十八かあ。じゃあ、受験シーズンじゃん。」

「いや、俺は大学に行かないで就職するので。」

「え、行かないの?」

 成亮は皿を洗う手を止めた。ぽとりと重力に従って、手に纏わりついた泡がシンクに落ちていく。

 はい、と彼は快活に頷いた。

「さっきも言ったけど、俺の家、母子家庭だから母の力になってやりたくて。」

 はにかむように和は笑う。癖なのか、彼の鼻がふくふくと膨らむ。

「すごいね。」

 心からの賛辞を彼に送った。自分よりも幼い彼が将来を見据えて、に尽くしているなんて、成亮から見ればすごいことこの上なかった。勿論、成亮だって預かってくれている美和子や信二のことを心から敬愛し、感謝している。だけれども、それ以上の軋轢が有輝也という存在だった。

「…すごいよ。」

 もう一度、小さく賛辞を送る。

 彼は照れたように顔を赤くして、またふくふくと鼻を膨らませた。

 皿洗いを終えた後、成亮は自分の緑茶を注ぎ、定位置の席に着いた。美和子はアイランドキッチン側の席、その隣は信二の席。信二の向かい側は成亮で、その隣は有輝也の席だった。

 和は有輝也の席に座っていたので、自然と隣り合わせになる。有輝也は成亮と同じく細身であったから、肩が触れ合うようなことはなかったけれど、和は男らしい肩を持っているため、少し身じろぎするだけで肩同士がぶつかる。

「あ、すみません!肩ぶつかっちゃって…。」

「う、うん。いいよ。それにしてもガタイいいんだね。何か部活やってたの?」

「部活はアルバイトしたかったから入ってなかったですけど、大体のスポーツはできますよ!」

 ああ、そうなの。

 安堵の言葉を漏らす。有輝也は歌やダンス、絵など芸術的な才能は群を抜いてあったけれど、スポーツの才能は皆無だった。ボールを蹴ろうとして地面を蹴っていたことは一度や二度ではない。だから有輝也と違う彼に、成亮は醜い安堵を覚えたのだった。

 有輝也が自殺して以来、誰もその椅子を動かそうとはしなかったけれど、偶然にも和はその席についてしまった。

「運動神経抜群なんだね。」

「え、シゲちゃんは運動嫌いですか?」

「嫌いじゃないし、サッカーとかやってたけど、大学生になってからはあんまりだなあ。」

「え、大学生なんですね?」

 驚いたように、彼は丸い目をさらに丸っこく変化させた。白と黒だから、本当にサッカーボールのようだ。

「え、意外?」

「はい、すごく大人っぽいからもう勤めてるのかと思いました。」

「…大人っぽい。」

 彼の陽気な受け答えを反芻する。

 どうしてだろうか。彼の言葉が妙に腹立たしくて、胸の奥で黒い靄が燻ぶっている。大人っぽいという単語は、成亮を評するものではなかった。どちらかといえば有輝也に対する称賛だった。

 放縦で天真爛漫、久城家の元気印。これほどに的確な言葉はないくらい、成亮は元気で、年相応の少年だった。まるで正反対なのに、どうしてこんなにも気が合うのだろうか。有輝也と成亮はそんな話題を度々口にした。周囲の友人も、有輝也の両親である美和子や信二でさえ、不思議そうに首を傾げていた。

 無意識に、成亮は熱いマグカップの丸みを撫ぜた。

「どうかしました?」

 思考に泳ぐ成亮に、彼は窺うように言葉をかける。

「ううん、なんでもない。そういえば、成人式も近いからスーツを考えないとなあって思っただけ。」

 選択を間違えてはいけない。成亮は柔和な笑みを浮かべて、心の底でじくじくと湧く苛立ちを覆い尽くした。

 一瞬、和は思考を逡巡するように視線を彷徨わせた。そして朗らかな笑みを浮かべる。

「二十歳なんですね!おめでとうございます!」

 まるで繭の外を撫ぜられているよう。



 緑茶が冷えた頃、二階から美和子が戻ってきた。有輝也と同じ重めの二重が腫れていて、泣いていたのだなと成亮は察した。和も同様に察していたようだけれど、二人とも気付かないふりをして、満面の笑みを浮かべた。

 三人で談笑しているうちに、夕餉の時刻となっていった。暖房から吐き出される空気で澱んだ部屋を澄ませるために、リビングの引き違い窓に隙間を作った。その隙間からどこかの家庭的な匂いが成亮の鼻腔を突いた。

「いいにおい。」

「シゲちゃんは料理とかしないんですか?」

「んー、しないかなあ。一人暮らしだけど、いっつもアルバイト先の廃棄貰ってかえってきちゃうから。」

 和は成亮の独り言をさらりと回収する。短い時間だが、彼についてわかったことがある。和は人の話をよく聞いて、考えている。朗らかな笑みの向こう側で、思考回路は幾重にも巡らされているようだった。素早く吐き出される話題は、そこはかとない距離感で、心地よい。触れてほしくないところには触れないし、でも離れすぎない話題を常に提供してくれている。

 非常に話しやすい存在だった。

「ええ、もったいない!料理、楽しいですよ。」

「ええ、そうなの?」

「はい!俺んち、母親と当番制なんで。少しずつ料理をしてたら、楽しさに目覚めたというか、作ってお母さんがありがとうって言ってくれる瞬間がすごく幸せで…。」

 目を細めて、ふくふくと興奮気味に鼻を膨らませる。

 成亮は苦笑を零して、冷たい空気を閉ざした。しゃっ、とカーテンを閉ざして、彼の方へと改めて向き直る。

「いいね、誰かに食べてもらうなんて幸せじゃん?一人暮らしだとそういうことないからなあ。」

「…?彼女さんとかいないんですか?」

「いないいない!高校生の頃はいたけど、大学生になってからは恋愛が億劫でさ。」

 和は驚愕の声を漏らして、目をまんまるとさせた。

「勿体ない!シゲちゃん、話しやすいし面白いし、綺麗な顔してるのに。」

 綺麗な顔、嫌な褒め言葉だこと。

 思考の一端を漏らさないように、成亮は閉口する。

「シゲちゃん?どうかしました?」

「ううん、ありがとう。言われ慣れてないから、びっくりしちゃった。」

「ええー!絶対に言われ慣れてると思ってた!」

 自分より綺麗な人がずっと隣にいたからそんなこと一回も言われたことなかったよ、なんて彼が当惑するような言葉は吐けなかった。

 成亮はただ眉尻を下げて、曖昧に笑う。

「ただいまー!シゲ―?帰ったのか―?」

 玄関から男の声が伸びた。

「あ、はい!帰りましたよー!」

 リビングまで我慢すればよいのに、彼は少しせっかちのようでするすると靴下がフローリングを素早く削る音が聞こえた。

 リビングの扉がかちゃりと開けられる。隙間からスーツ姿の信二が顔を出した。使い古された紺のスーツ、薄いピンクのネクタイ。既に羽織っていた黒のコートは脱いだようで、ぐしゃりと手にかけられていた。かっちりとワックスで撫でつけられた髪と凛々しい眉によって、慇懃な雰囲気を醸し出している。

 座っていた美和子が立ち上がり、「おかえりなさい。」と柔和な笑みで迎えた。

「ただいま。シゲもおかえり。」

「ただいま、帰りました。お久しぶりです、信二さん。」

「うん、久しぶり。えっと、君は和くん?」

 信二は黒い瞳で成亮を捉えると、心から歓迎するように挨拶をした。そしてするりと視線を横にスライドして、和に声をかける。

「あ、はい!明智和です!お世話になります!」

「うん、狭い家だけど、ゆっくりしていってくれ。」

 和はびしりと背筋を伸ばして、勢いよくお辞儀をした。信二は苦笑交じりの言葉を零して、コートの下に隠し持っていた鞄から弁当箱を取り出し立ち上がった美和子に渡す。

 慇懃としていて、大黒柱のような雰囲気を醸し出しているけれど、彼はとても愉快な人物だ。有輝也も、成亮も、彼のことが大好きだった。

「そういえば、成亮は二十歳になったのか。」

「あ、はい!そうです。」

「おめでとう。今日は飲めるか?」

「え、あ、はい…、予定はないですけど。」

 成亮の誕生日は七月であったから、当の昔に誕生日は迎えている。この家に帰るのはひどく億劫で、二十歳になって初めての対面だった。

「そうか、じゃあ、一杯付き合ってくれ。」

「わ、かりました。」

 当惑気味に成亮は頷く。決して嫌などではない、成亮は彼のことが今でも好きだ。だけれど、どうしても頭の片隅で有輝也の存在がちらつくのだ。本当ならば、実の息子である彼と一杯交わしたかったのではないだろうか。そんな疑問ばかりが先行する。

「あの!俺も混ざっていいですか!」

「え、でも和くんは未成年だろ?」

「オレンジジュースとかでいいんで!信二さんとお話したいです!」

 助け船。

 成亮の曖昧な頷きを誤魔化すように、和は声を上げた。彼はよく人を見ていて、話しを聞いていて、考えている。成亮の戸惑いをいち早く察知したのだろう。年下からそんな助け舟を出されるのは情けない気持ちもあったけれど、ひどく安堵している成亮もいた。

 曖昧であることは、人を傷つけること。十八の冬に学んだはずなのだけれど。

 成亮は快活にコミュニケーションを図る和に目を細める。

 本当に、昔の自分を見ているようで嫌になる。そんな思考を払うように、くしゃくしゃと痛んだ黒髪を撫ぜた。

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